911から25年

Unsplash Jesse Mills

2001年9月11日。

あの日、あなたは何をして過ごしていただろうか。

当時、私は高校1年生で、事件発生をテレビで知った。

自室のベッドに横たわり、雑誌を読んでいると、突然、父が血相を変えて私の部屋に飛び込んできた。

「おい!とんでも無いことが起こってるぞ。今すぐ居間に来い」

廊下をダッシュしてリビングに入り、テレビに目をやる。

テレビには、炎と煙を吹き出す、どこかのビルの映像が延々と映し出されていた。

私は、映画か何かかと思い、数秒間、黙って見つめていた。父が「とんでも無いことが起きている」と私に知らせてきたことは、なぜだかそのとき、忘れてしまっていた。あらゆる思考がストップし、目の前の衝撃的な映像に、ただひたすら釘付けになっていた。

父がリモコンを操作し、チャンネルを変えていく。

まずはNHKの10時のニュース、続いて、テレビ朝日の「ニュースステーション」…といった具合に、次々にチャンネルを変えていくが、すべてのチャンネルがみな一様に、臨時ニュースを放送していた。これらのニュース番組は、どの局もヘリから送られてくる同じような映像でほぼ固定され、たまにアナウンサーが登場し、険しい表情で原稿を読む姿が映し出される…これを延々と繰り返していた。特別編成のためか、普段見慣れないアナウンサーの姿もあり、たどたどしく原稿を読む姿は、一層、ことの重大さを増幅しているかのように見えた。

ニュース番組のテロップを見ると「米ニューヨークの世界トレードセンターに旅客機が追突か」の文字が表示されていたと思う。

「事故?」と私。

「いや、まだわからん。」と父。

父は、続けて「こんなことは起こり得ない」という話をし出した。当時、父は旅客業界で働いていたので、飛行機や船の運行にやたらと詳しいのだ。

ニュース番組も事故だと想定して番組を進行しているように見えた。台風のニュースを差し込んだりしていたのだ。

それが一変し、またツインタワーの映像が戻ってきた。なんと、もう1機の航空機が、今度はツインタワーの南棟に突っ込んだのだ。

まさにその瞬間を、生放送でテレビ越しに目撃してしまった。現在主流の高精細液晶テレビではなく、当時はブラウン管のテレビだったと思う。しかし、飛行機が突っ込む様子をはっきりと映し出していた。

「これは、どう考えてもおかしなことが起きている」。

このときは、まさか、イスラム教徒のテロリストが乗客がたくさん乗った旅客機をハイジャックし、世界最大の都市のど真ん中のビル目掛けて突っ込ませるなど、想像だにしなかったのだ。

階下で暮らす祖父母の部屋も、煌々と灯りがついていることに気がついた。階段を降り、祖父の部屋を覗くと、テレビ画面から一瞬、視線を外した祖父と目があった。

普段は寝ているはずの祖父も、この日ばかりは起きていて、テレビ画面を食い入るように見つめていた。

「米空軍の戦闘機がニューヨーク上空で待機」「米国内の空域全てに飛行禁止措置」「陸海空すべての国境にて閉鎖措置を実施」など、硬派なミリタリー小説や映画でしか見たことのない文言が次々にテレビ画面に登場していた。「国家非常事態宣言」の文字を見たのも、この時だった気がする。

さらに、目を疑う敵ごとが起きた。「国防総省(ペンタゴン)にも航空機が追突した模様です!」という続報が入ったのだ。

何も言葉を発せず、祖父の方を見る私。

祖父はテレビを見ながら「世界大戦になるかもしれんぞ」とだけ呟き、その後は黙ってしまった。

戦争体験者の祖父がこのような言葉を発したのは、後にも先にもこの時だけだった。

いっぽう、私は、悲しみを通り越して猛烈な怒りの感情が湧いてきたことを覚えている。

当時の私はちょうどアメリカ人に親近感を抱く体験をしたばかりだったのだ。

遡ること数週間前、まさに、このアメリカにいたのだ。

夏休みと、その前後を利用して2ヶ月ほどアメリカ合衆国のカリフォルニア州に滞在していた。

私が通っていた高校には、1年生が選択制で参加できる語学研修プログラムというのが用意されていた。

提携する現地の大学(カリフォルニア大学サンタクルーズ校)に7月から8月いっぱいまで滞在し、英語学習や種々のアクティビティを体験するなどして過ごしてきたのだった。

そうしたこともあって、米国人に対し、個人的に親近感を抱くようになっていたのだった。

滞在中に優しく接してくれた米国人の方たちの顔が浮かんだ。英語クラスの先生、学内を案内してくれたり、キャッチボールをしてくれたスタンフォード大学の学生、学食で日本人のことを不憫に思って即席の納豆サラダを作ってくれた黒人のお兄さん、毎日のように通ったダイナーのおねえさん。エルビスプレスリーが「私のアイドル」と話すホームステイ先のおばあさん。「兄は自分の学費を稼ぐために海兵隊に勤務しているんだ」と話していた、大学のチューター役のKさん。

数えきれないほどの顔が浮かんだ。もしかしたら、彼らのうちの誰かが犠牲になっているのかもしれない。家族や友人が、あの飛行機に乗っていたかもしれない。兄弟がワールドトレードセンターで働いているのかもしれない。Kさんのお兄さんは、この後、戦地に駆り出されることになるのかもしれない。…そんなことを考えると、胸の奥が焼きつくような感じがした。

また、私の両親の新婚旅行先はアメリカだったので、そのときに出会ったであろう人々のことにも思いをいたしていた。目の前にいる両親もまた、これまでに見たことがないような不安そうな顔をしていた。

その後、何度かアメリカを訪れる機会があったのだが、その度に、まるで米国ではない別の国に来たかのような感覚になったことを覚えている。

入国審査は長蛇の列となり、眼光鋭い審査官がすべての入国者をつま先から髪の毛一本に至るまでチェックしているかのようになった。

私が初めてアメリカの地を踏んだ2001年の7月というのは、(私がまだ10代だったこともあるが)テレビドラマにでも出てきそうなお姉さんが、ちょっとだけ会話をしただけでほとんど顔パスのように通してくれた。出発前に学校でトレーニングを重ねた「入管シミュレーション」での会話は、ほとんど交わされず、質問はせいぜい「どんなことをして過ごす予定なの?」くらいだった。他は、ほとんど雑談。しかも、とてもフランクな英語だった。

それが、その数年後には、すっかり一変してしまった。

持ち込み荷物の規則も大幅に強化された。「100ml以上の液体を持ち込んではならない」「TSAロック非対応のスーツケースは予告なしに破壊され、中身を検められる可能性がある」などの物々しいレギュレーションが普通となる。今となっては「そういうもの」だが、当時は「そこまでやるのか」と、とても重苦しい気分になった。しかし、9.11を境に、「そういうもの」という概念がどんどん強化されていったようにも思える。

私の前に並んでいた老紳士は、金属探知機が鳴ったためにほとんど上半身丸裸にされていたこともあったし、やたらと妙なことを根掘り葉掘り聞いてくる陰険な表情の入国審査官もいた。

好きになったアメリカという国が、あの日を境に、いきなり消え去ってしまったような気持ちになったのだった。

あれから今日で25年。四半世紀が経過したことになる。

911を境に、世界のすべてが変わってしまったと感じている。それまで私の心のどこかで灯っていた「世界はなんだかんだで良いところになっていく」という気持ちは、あの夜、ふっと消えてしまった。

しばらくは、小説を読んだり映画を観たりする気にもなれなかった。現実が虚構を超えてしまったのだ。「あれ以上の凄惨なことが起きるだろうか」と、本気で思っていた。

この原稿を書くにあたって、ひとつ調べてみたことがある。あの夜、テロップで見たと記憶している「国家非常事態」という言葉のことだ。

ブッシュ大統領が正式に国家非常事態を宣言したのは、事件から3日後の9月14日だった。高校生の私の記憶は、どうやら3日分の出来事を一晩に押し込めていたらしい。

驚いたのは、その先である。

アメリカの法律では、国家非常事態は毎年延長の手続きをとらなければ自動的に終わる。ところがこの非常事態は、ブッシュ、オバマ、トランプ、バイデン、そして再びトランプと、大統領が替わっても一度も途切れることなく延長されてきた。今年も9月8日付で、テロの脅威は続いているとして、さらに1年の延長が告げられている。

つまり、あの夜から今日まで、アメリカは一日たりとも非常事態を解いていない。

「いまだに非常事態が続いているような気がする」という私の感覚は、比喩ではなかったのだ。

非常事態が毎年更新されるように、空港の規則もまた更新され続けた。あの液体の持ち込み制限も、2006年に液体爆弾テロの未遂事件が発覚したことで加わったものだ。脅威が見つかるたびに、規則は積み重なっていった。

そして私の中でも、ひとつの感覚が毎年のように更新されている。

「これ以上、何が起きても驚かない気がする」。

25年前の今夜、祖父は「世界大戦になるかもしれんぞ」と呟いた。幸いにして、その言葉はまだ現実になっていない。けれど、あの夜に始まった非常事態は、終わる気配を見せないまま、26年目に入ろうとしている。

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