亡き祖父は、七夕になると毎年かならず「世界平和」と書いた短冊を笹に結わえていた。
「プレイステーション2が欲しい」「背が伸びますように」などと無邪気に願う孫たちの短冊の隣で、その四文字だけが異様な重みを放っていたことを今も鮮明に覚えている。
大正生まれの祖父の青春時代
祖父は1926(大正15)年生まれ。富山商船学校で学んだのち、制度上ほぼ自動的に帝国海軍へ編入され、海軍少尉として輸送艦隊等での勤務ののち、海上特攻作戦の準備をしていたところで終戦を迎えた。
最後の任務は、爆薬を積んだベニヤ板製ボート〈震洋〉で敵艦に体当たりする“本土決戦”の準備。
――「来る日も来る日も、ボートで敵艦に突っ込む練習ばかりしていたぞ」。
学校の宿題で戦争体験を聞き取る課題が出たとき、祖父はそれだけポツリと話し、あとは黙して語らなかった。
「20歳で少尉なんて、じいちゃんすごいじゃないか」と無邪気に質問する私に対し、「上のもん(者)らはことごとく居なくなってしまったからな」と話していたことも私の脳裏に焼き付いている。馬鹿な質問をしてしまったと後悔したことも。
祖父が任官した1944年当時は、マリアナ沖海戦、台湾沖航空戦後、急速に絶対国防圏が崩壊。本土と太平洋各地との連絡を担う輸送艦隊も壊滅に近い状態となり、最終的に日露戦争時代の老朽艦まで引っ張り出す有様であったという。次第に、それらの多くも沈められてしまった。日本海にも潜水艦が多数侵入し、輸送網は寸断され、防空網もスカスカになった空からは、無数の機雷が撒かれた。日本の港は、軍港・民間港問わず封鎖状態となってしまっていた。祖父が海軍に入った当時、帝国海軍の組織的戦闘能力はほとんど失われていたといってよい。
語られなかった痛み、聞くことのできなかった地獄
乗る船を失った商船出身の若者たちは、兵器とも言えないようなボートに乗り込むしかなかった。そして、自爆ボートで敵艦に体当たりを試み、実際に散った若者たちは確かに存在したのだ。
「歴史群像」か航空専門雑誌「航空ファン」の別冊特集号(戦後50年特集)で震洋のことを知った私は、その壮絶な戦いぶりに戦慄してしまった。強烈に脳裏に焼き付いているのは、米軍が使っていた「Suicide Boat(自殺ボート)」という用語だ。英語の、しかも軍事用語ゆえに、シンプルにその性質をあらわしていると感じた。
雑誌はもう手元にないが、現在、米軍の戦闘詳報をオンラインで閲覧することができる。震洋ではなく、帝国陸軍の四式肉薄攻撃艇による攻撃の詳報だが、本土決戦の際には同様の戦いが本土各地で繰り広げられることになったと思われる。
・米軍戦闘詳報 H-046-2: Kikusui No. 5—”Chrysanthemums from Hell,” 4 May 1945
自爆艇による攻撃、1945年5月3日
5月3日の日没後、日本軍の特攻艇部隊「第27特攻艇大隊」が沖縄沖の戦場に突入した。掃海艇に発見され、サーチライトで照らされていたにもかかわらず、この一人乗り特攻艇は攻撃貨物船カリーナ(AK-74)に体当たりし、搭載されていた爆薬を爆発させた。幸いにも、カリーナの横に停泊していた上陸用舟艇が爆発の大部分を吸収し、船倉の一つが浸水しボイラーが故障した。船は死者なし、負傷者6名で沈没を免れた。翌朝の点検で甲板と船体に大きな亀裂が見つかり、艦長は中程度の波浪であれば船が崩壊する可能性があると判断。効果的なダメージコントロールにより、船は救われただけでなく、積荷も救われた。カリーナは慶良間列島で応急修理を受ける前に積荷を降ろすことができた。その後、カリーナはアメリカへ航海し、終戦までそこに留まっていた。
Suicide Boat Attack, 3 May 1945
After sunset on 3 May, a Japanese army suicide boat of the “27th Suicide Boat Battalion” entered the fray in the waters off Okinawa. Although spotted by a minesweeper and illuminated by a searchlight, the one-man boat successfully rammed the attack cargo ship Carina (AK-74) and detonated the onboard explosives. Luckily, a landing craft moored alongside Carina absorbed much of the large explosion that flooded one hold and knocked out a boiler. The ship remained afloat with no crewmen killed and only six wounded. Inspection the next morning revealed significant cracks in the deck and the hull that the commanding officer assessed would cause the ship to break up in a moderate sea. Effective damage control not only saved the ship, but also the cargo, which could be offloaded before Carina received temporary repairs at Kerama Retto. She then sailed to the States, where she still was when the war ended.
米海軍戦闘詳報 H-046-2: Kikusui No. 5—”Chrysanthemums from Hell,” 4 May 1945
雑誌などを読み、海上特攻作戦に関する知識を得たとき、「この記憶をこじ開けるのは良くない」と直観したのだった。同時に、米軍がしっかり自爆攻撃への対策をしていたこと、陸海軍の指導部が想定していたような戦果は到底あげられなかったことにも、(そんなことはうっすらわかっていながらも)衝撃を受けた。
これらを勘案した私は、祖父の沈黙を無理やりこじ開けてまで詳細を聞く勇気は、結局持てなかった。
短冊ににじむ“重さ”を察し、そのまま胸にしまうことしかできなかった。
私が「熱狂」という言葉を避ける理由
話は飛ぶが、私は原稿を書く上で「熱狂」という語を軽々に使いたくない。面倒臭い野郎だなと自分でも思う。しかし、良心がどうしても受け付けない感じがある。
今でもこの単語を見るたび、祖父の話が脳裏をよぎるからだ。
国を挙げた狂騒が、若者の人生を根こそぎ奪ったあの時代――。
家族を楽にさせたいと苦学した学生たちは、粗末なボートに爆弾を積み、海へ押し出された。
無謀を後押ししたのは、冷静さを失った集団心理、すなわち“熱狂”だった。
時代が変わったと言われる現代社会でも、同質の熱はかたちを変えて潜んでいる。
劇場型の政治、行き過ぎた過剰消費、SNSで増幅される断片的な正義。
いつでも理性を奪われる危うさと隣り合わせだとつくづく思う。
もっとも、私がそれと無関係だというつもりはない。
無批判で加担することがないように点検しながら日々を泳いでいかねばならないと思っている。
私もまた、熱しやすく冷めやすい、ワッショイ状態で闇雲に突っ込んでいく性質のある国民のひとりなのだ。
そして、陰で辛い思いをしている人たちのことを、まるで初めから存在しないかのようにして忘れてしまう。
四文字が教えてくれること
七夕の笹に揺れる「世界平和」の短冊。
祖父は、その四文字に自身の記憶を封じ込めていたのかもしれない。
語らないかわりに、未来を生きる私たちへ無言の宿題を残した――熱狂に呑み込まれず、互いの尊厳を認め合う世界を選び取れ、と言っている気がしてくる。
今年もまた七夕が来た。
子どもの頃と同じように短冊を手にした私は、祖父と同じ四文字を書いてみる。
その筆先に込めるのは、過去の痛みを忘れず、しかし怯えも憎しみも次の世代へ渡さないという静かな決意だ。
私の祖父をはじめとする戦争経験世代の多くが鬼籍に入った今、ますます目を背けてはならないことであると思う。
しかし、引き受けて考えねばならぬことだとも思っている。
8月にだけ「考えたふり」をするのも、間違いではないにせよ違和感があり、今日書くことにした。
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