ホワイトデーの奇跡

今週は、良いことがありました。

数年ものあいだ絶縁状態だった親友K君と、仲直りをしたのです。

人生最良の日のひとつになったといっても過言ではありません。

本人は読んでいないと思いますが、もし読んでいたら、「俺も本当に嬉しかった」と伝えたいです。

彼とは、かつて一緒にバンドを組んでいた仲間同士です。

2019年のことです。関西地方で開催したライブ後に、大変恥ずかしながら、殴り合い寸前の大喧嘩をしてしまい、その後3年ほど絶縁状態にありました。その間、会いもしなければ、言葉を交わすことも一切ありませんでした。

共通の友人も多いので、新潟やら東京やら京都やら佐渡やら、いろいろなところでニアミスすることは数知れず。しかし、結局、邂逅することもなく月日が経過していました。

しかし、あるとき、ふと「俺はこのまま死んでいいのか」と思ったのです。彼にひとこと、謝らなくてよいのか。仲直りをしなくていいのか。もう、会えなくて本当にいいのか。

「親友」と呼べる友人は、両手で数えられるほどしかいませんが、彼は確実にその中のひとりでした。「でした」のままで、本当によいのか。

奇跡

3月13日のことでした。

頂き物のビール片手に、夜な夜なくるりの「奇跡」という楽曲のライブ映像を観ていたら、なんだか感極まってしまいました。もともと大好きな曲だったのですが、この日はなぜかアウトロのギターソロがいつもより美しく聴こえ、曲の終了後も余韻が残っていました。

「酔いすぎたな…」などと思いながら、ほとんど無意識にギターを手に取りました。弾きたくなったのは「奇跡」ではなく、友人が作った、バンドの楽曲のギターソロ。すると、自然と涙が溢れてきたのです。ほんのワンフレーズをポロロンと爪弾いた程度なのですが、手は震えるし、思い出の数々が、走馬灯のように頭の中を駆け巡ったのです。

今まで、そんなことはありませんでした。

「ま、酔ってるんだろう」と思いつつも、無性に気になりSNSを開くと、なんと彼がちょうど新潟に向かっているという情報が。

「えええ!ほ、ほんとに奇跡やんけー!」と思いました。なぜか関西弁で、自室で叫んでしまうわたし。

頭の中で思考が言語化されるよりも前に、スマホに手が動きました。

手にとってからやっぱり不安になり、数秒固まるわたし。

恐る恐る連絡を入れると、1秒ほどで返信が返ってくるではありませんか。

拍子抜けしてしまいました。

いざ会ってみると、いきなり向こうから謝罪の言葉が。

まったく予想していなかったので、これにも拍子抜け。

その後、何を話したのか。仔細は覚えていません。

ただ、「そんなにも自分のことを誠心誠意、考えていてくれたんだ」ということ。

このことだけは、痛いほど伝わってきたのです。

結局はがっしりと握手をし、「またね」とお別れいたしました。

心は通じていたのだ、ということに嬉しくなるとともに、今回の自分の行動といいますか、心のはたらきを自分自身で褒めてやりたいと思いました。

天下国家を論じる前に、まずは自分の襟を正したかった

ここ数年、あらゆる人間関係を刀でスッパリと断ち切られたかのような日々でした。

加えて、今年に入ってからは、痛ましいニュースを目にしない日はありません。

どうにか現状を切り抜ける術を考えるものの、至る結論は同じ。

「天下国家を論じる前に、まず自分自自身を正していかなくては」と思ったのでした。

そうして考えてみると、自分が成すべきは、何なのか。

ともだちと、仲直りをすること。

小学3年生の目標みたいですが、ここ3年間の私の目標だったのでした。

数値目標を達成するとか、そういうことではなかった。

36にもなって(まもなく齢37を迎えようとしていますが)、なんという体たらくなのかと恥じ入るばかりなのですが、むしろ、歳を重ねるほど、難しくなることなのかもしれません。

歳を重ねるごとに、頭が固くなっていくような気配をほんのりと感じ始めています。要するに、頑固になっていくのだなと。そして、大人ほど、拗らせていくものだと。

拗らせた先に待っているのは、猜疑心、恐怖心、不信、不理解、嫉妬といったあらゆる負の感情が作り上げる、物の怪になる道なのではないか。

そんなことを悶々と考えていて、正直とても苦しかったのですが、この日を境にそれが吹っ飛んだ気もしています。

3年間、考えていたことであっても、いざ実行するには、奇跡を待つしかなかった。

そんな自分のことを「馬鹿だな、お前は」と思うのと同時に「これでよかったのだな」とも、心から思います。

最後までこのような駄文に付き合ってくださった皆様も、もし同じようなご友人、ご家族などがおられましたら、思い切って仲直りしてみることをおすすめします。

とくに、本気で人生をぶつけ合った人間同士ならば。