2020/10/09/忘れてた大切な何かに

記念すべき随筆第1回。サイトを公開して5年近く経つのに。ブログ機能を付けていたのに。今になって第1回。うそやん。

さて、やるとなったら早速いこう。最近あったトピックスからひとつ。

佐渡で稲刈りをしてきた。合計で数日間程度だったが、自分ができることは100%やりきったと胸を張って言える。ツナギは汗と泥でぐっしょり。夜はだいたい8時くらいに気絶していた。飲むぞ!とか意気込んでいたのに。

仕事やら何やらでてんてこ舞いだったが、気が付くと身体は佐渡にあった。

「なんでそんなことを」。何人に聞かれたかわからない。ぶっちゃけ、わたしも同じ疑問を持っていた。給料が出るわけじゃない。船賃や滞在経費等も当然、自分の持ち出しである。米だって、正規の値段で買っている。そもそも生産者の親戚でもない。強制性は皆無だ。それなのになぜなのだろう。

単純だけれど、あの島が好きなのだろうと思う。

いやいや、そりゃ好きじゃなきゃそもそも行きませんぜ旦那。というツッコミが自分の中から飛んできた。

ということで、初の日記では「なぜ佐渡に」をテーマに、少しだけ真面目に分析をしてみた。

いきものが、いとしげ

いきものが、かわいいのだ。

佐渡では、これまでに会った人はもちろん、フラッと入った定食屋のおばちゃんだとか、散歩している犬、そのへんを歩いている猫たち、なにをとっても、いい感じにかわいいと感じた。人に対して「いきものがかわいい」などと言うのは語弊があるが、ここでは豪快にまとめさせていただく。

佐渡方言では「かわいい」を「いとしげ」という。「愛しげ」というわけである。

漢字にするとわかりやすいが、単にPrettyというのとは、ニュアンスが違うのだと思う。イギリス英語の「Lovely」が近いような気がする。好きとか、愛らしいだけでなく「いい感じ」というニュアンスも含まれているように感じている。

ビジュアル的かわいさはもちろん内包しつつも、存在としての可愛さ、愛しさを表現する、ある意味「エモい」表現な気がして、私はこの言葉が好きだ。

余談だが、「いい感じ」という表現。語彙力皆無の表現である。当たり前だが、絶対に仕事では使わない表現だ。個人的にも、務めて使用を避けている。しかし、このいい感じという表現にこそ可能性を感じている。他の誰も介入し得ない、自分だけの心象という気がする。なんでもかんでも具体化を求められる中での、ささやかな反抗としても使いたい。

神様からのプレゼント

佐渡でもっとも「いい感じ」と思うもの。それは米だ。米が本当においしいのだ。

今日も朝昼晩、新米をいただいた。

わかりやすく元気になっている。

お米というのは、神様感がすごい。神様が詰まっている感じがある。

私は神宮幼稚園というところで幼少時代を送った。名前のとおり神道系の幼稚園だ。剣道なども取り入れていたが、厳しさは皆無だった。私がひたすら感じていたのは「あたたかい、いい感じの何か」だった。

そして、神様が近くにいた感覚がある。「一粒一粒に神様が宿っている」というのは、毎日のように教えられた。園児による米の収穫体験などもあり、米にふれる機会は他より多かったのではないかと思う。

小さい頃は、神様というのは当たり前に存在し、いとしげ〜な感じの存在だったと思っていたと言うことを、いま思い出した。幼稚園児の頃にそういう体験をしていたことをずっと忘れていたのだが、あるときふと思い出したのだ。突然記憶がよみがえるのは若年制痴呆症の可能性もなくはないが、まあそれはいい。

ちなみに今回は、もち米の収穫も手伝った。これを、手刈りをし、乾燥機には入れず、「はざがけ」と呼ばれる原始的な方法で乾燥させるという。

他の米以上に、大切に扱っている印象を受けたので、聞いてみると、神事に使われるのだという。神聖かつ重要な米である。

私にとっては、これを手伝えたのが嬉しかった。

考えてみれば、米の収穫は、ひとりではできない。多くの協力者を必要とする。その時点で、分かち合うことを運命づけられている存在なのだという気がしている。まるで、あかちゃんみたいなものだ。かわいい存在である。それを分かち合う素晴らしさ。ごはんを食べる際に、思いを巡らせている。そして、体重が順調に増加している。

私を島に誘った嘉向徹さんと保科亮太さんの両氏は、日本各地に自費でこの米を届けている。私以上の採算度外視で。

このご時世、ネットでポチれば、なんでも購入することができる。Amaz○nでは下手したら当日中に届く。そんな時代に、彼らはわざわざクルマで各地を行脚しているのだ。

なんらかの、いい感じの出来事が生まれるのではないかと私も楽しみにしている。

忘れていた大切な何かに、火をともす

そういえば、Twitterがきっかけで思い出した素晴らしい歌詞がある。

”忙しい毎日に溺れて素直になれぬ中で 忘れてた大切な何かに優しい灯がともる”

これです。これこれ。

GLAYの「BELOVED」という曲の有名な一節だ。

稲刈り中、やたらとこの一節が頭の中でリフレインしていた。

米によって、優しい灯がともった感じがしている。

もしかしたら、神様からの何らかのメッセージなのかもしれない。話がデカいが、私をきっかけとして、誰かに優しい灯がともることだってあり得る。

なぜ突然、日記などを始めたのかといえば、他の誰かに何らかの形で(できれば優しい)火が灯るといいな、と思ったからだ。

仕事で書く文章は、身を削って書く。それとは別に、世界を広げておきたい。

我ながら熾烈な世界に身を投じていると思う。物書きの端くれとして、食らいついていきたい。

書いていたら「ぜんぜん日記じゃねえじゃん、記事じゃん」と思ったが、人生とは得てして、思い描いた通りにならないことが多いのである。

誰が読んでくれているのかわからないけれど、分かち合っていけたら良いなと思う。

 

追記

なお、突如このように日記の名を借りた随筆を始めてみたのは、他ならぬ素晴らしい友人のおかげです。今はバリ島にいるちあきちゃんという大切な友人がきっかけだ。ちあきちゃんありがとう。まだ第1回なのに、何かを成し遂げたかのような書き方をしてしまっている。この恥ずかしさをそのままに、感謝の意を伝えます。

追記2

ひとこと日記としてスタートする予定がこうなってしまった。何事も、ままならない。次回はもっと軽やかに書こう。