What an Odyssey

ずいぶん昔のことだ。

その日わたしは、ドイツのフランクフルト国際空港でトランジット(乗り継ぎ)待ちをしていた。ヨーロッパの初秋の美しさはどこへやら。新潟で見慣れた曇天がどこまでも広がっていた。しだいにそれは、神々しさを覚えるほどの稲光が遠くで光り、遅れてすさまじい轟音が到来する。空港のガラス窓はカタカタと震え、次第に近づく雷光とともに、悲鳴の数が増えていく。

この日、夕方の便でスコットランドのエディンバラに向けて飛ぶ予定だったのだが、先週から続く悪天候の影響をうけて、飛ぶか飛ばないかは出発2時間前になっても不透明という状況にあった。

結局、飛行機搭乗の1時間前に欠航のアナウンスが流れることとなった。

うなだれる搭乗客たち。がっくり肩を落とす者、各々が神の名をつぶやく者、欠航が決まった旨をすぐに家族や上司、同僚に電話を入れ始める者もいた。

「おいおい、マジかよ。…ったく、どうしてくれるってんだ」といった調子で、スコットランド英語で軽く悪態をつく者もいた。

私の隣のベンチには、40代後半と思しき夫婦が座っていた。右側に座る男性が「ふう」と一息つくと、妻に向かってこう呟いたのだ。

「”What an Odyssey”」

「ワッタ、アノデッセーイ」と聞こえたので、その発言が「オデュッセイア」についてのことだということに、しばらく時間がかかってしまった。自らの妻にだけ通じればいい、という囁きだったので当然である。

よせばいいのに、私は、彼の方を見て「Sorry?(いま、何と?)」と訊いてしまった。

発言後すぐに、後悔が始まった。私の悪い癖でもある。すぐに逡巡するのだ。

当然だが、私に向けて発せられた言葉ではない。それに、私の質問の仕方も極めて雑だった。「今なんとおっしゃったのですか?」と聞くべきだったし、そもそも現在進行形で非常事態なわけである。シチュエーションをもう少し吟味すべきであったのだ。

いきなり見知らぬ東洋人に、しかもシンプルすぎる英語で話しかけられたので、「迷惑だよな」と心配したが、杞憂に終わった。

聞けば、彼はスコットランド在住のイングランド人、奥様はグラスゴー生まれのスコットランド人らしかった。ショートバカンスで欧州各国を旅してきて、これからようやく帰国の途につく予定だったという。

「ショート」といっても2週間近い休暇らしく、ウクライナ、ハンガリー、オーストリア、イタリア、ポルトガル、ドイツと周る長旅で、LCC(格安航空会社)を駆使した弾丸旅行の繰り返しとのことだった。

「おっ」

私の質問に一瞬だけ驚いた表情を見せた後、彼の目が輝き出したことを見逃さなかった。

むしろ、よく訊いてくれたね、とばかりに、解説が始まったのだ。

さらに聞いたところによれば、夫婦は学生時代、ともにエディンバラ大学で歴史学を専攻していたらしい。「本物」を前に、まだ何者にもなっていない私は少したじろぎながらも会話を進めた。

オデュッセイア関連のエピソードや名言の中には、「Mentor1」「Siren2」英語の語源、慣用句になっているものが少なくないことを知った。

とくに面白かったのが「Between Scylla and Charybdis」という慣用表現だ。作中で六つ首の怪物と大渦の間の狭い海峡を通る場面から、「どちらも避けがたい二つの災厄の板挟み」を意味するという。英語では “between a rock and a hard place” のほうが日常的だし、ビジネスの場で実際に聞いたことがある。その「格調高いバージョン」ともいえる。

そして、最も有名なのは”Trojan horse”、これだ。「トロイの木馬3」である。思わぬ不意打ちなどに使われる。

彼は「IT関係の仕事をしているんだって?じゃあ、解説はいらないよね」と話し出した。温厚を絵に描いたような風貌の彼が「Bloody Fxxking Virus」と呟いていたので、過去に相当「やられた」ことが窺われた。

泣きっ面に蜂、みたいな方向に話が進んでいくのは精神衛生上よろしくないので、オデュッセウスが飼っていた猟犬アルゴスの話題になった際に私は「日本にも犬にまつわる面白い話がある」として、渋谷駅の忠犬ハチ公の話をしたりした。そうこうしているうちに、各々、滞在先が決まるなどしたために、別れの時がきた。

いま思い出してみれば、彼ら夫婦との話の中で、教養の大切さを知ったような気がする。ビジネスを進めるにしても、一定以上の教養を持ち合わせていなければ、まったく相手にもされないことも知った。自身の金儲けの話ばかりしている人間は、結局、最後には何も残らぬばかりか、思わぬ落とし穴にハマる、というようなことも教えてもらった。ミイラ取りがミイラになるが如く。

別れる間際、”Good luck with the rest of your own odyssey”

そう言葉をかけてくれたと記憶している。

「君も、君自身のオデッセイを無事完遂するよう願っている」という意味になるだろうか。

なんと素敵な人々だろうかと思った。

空港の巨大な窓ガラス越しには、まるでゼウスが怒り狂っているかのごとき光景が広がっている。それを見ていると、なんだか神妙な気持ちになった私は、心の中で静かに神様に感謝の意を捧げた。

こうでもなければ、彼らと話すことさえなかったのだから。

飛行機が直前になって飛ばなくなるというのは、明確なる非常事態である。孤島に留め置かれたオデュッセウス一行とは比べるべくもないが、我ら現代人にとっては極めて深刻だ。狼狽し、恐慌状態に陥るのがむしろふつうかもしれない。そうした中で、周囲を見渡してみれば、苦境を切り抜けるヒントが用意されているかもしれないのだ。用意するのは神々かもしれないが、それをつかみ取れるかどうかは、我々にかかっている。

よせばいいのに、いきなり隣人に話しかけてしまう私の好奇心の中にも、オデュッセウスは存在しているよな、などと思ったことも記しておく。

  1. Mentor=「メンター」として日本でも定着している言葉で、助言者や先達といった意味をもつ。オデュッセウスが出征する際、息子テレマコスの後見を託した彼の古い友人、メントール(Mentor)。今や動詞にもなり、mentorship、mentee といった派生語まで生まれている。 ↩︎
  2. Siren=警報機などを意味するサイレン。歌声で船乗りを惑わす海の怪物「セイレーン」に由来するともいわれる。「魅惑的だが危険なもの」という意味の siren song、siren call は今も比喩として現役。町内や救急車のサイレンまでこの一族と考えると、ものすごく長い血脈を保っている一族である。 ↩︎
  3. オデュッセウス発案の有名な策略「木馬の計=トロイの木馬」。『オデュッセイア』第八歌で吟遊詩人に歌われる。コンピュータウイルスの trojan (トロイの木馬ウイルス)もここから。 ↩︎
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