映画『オデュッセイア(2026)』のネタバレをしてしまっているので、本作を未見でこれからご覧になる方はご注意ください。「ネタバレなしを前提として会話を進めていきたい」というプロンプトの実験をしようと思っていたのですが、すっかり書き忘れました。ごめんなさい。
映画『オデュッセイア』が日本で公開された。筆者は9月6日にイオンシネマ新潟亀田インターにてIMAX先行上演を観ることができた。
帰宅後、案の定、眠れなくなった筆者は、Macを開き、夜な夜なAIに語りかける。
以下は、そこで生まれた20,000万字を超える対話の記録である。
あかりにも長いので、内容をまとめた概要文を先に書いておく。
映画『オデュッセイア』を観た帰り、ひとつの直感を持ち帰った。これは「人類の業の話なのだ」と。神は何ら愚かなことをせず、ただ在るだけで、罪を犯すのは人間だけである。トロイの木馬とは、神との契約を破ることの暗喩ではないか。そう思ったのだった。
その直感は、ほぼ当たっていた。『オデュッセイア』第一巻でゼウスが最初に発する台詞が、要するに「災いを我々のせいにするな、あくまでもお前たち人間の愚行だ」なのである。そもそも、原典の叙事詩からして、そういう物語なのだ。
ギリシャ神話に登場する神々は、ひと癖もふた癖もある神ばかりだ。むしろ人間よりも人間的とすら言えるかもしれない。熱情に駆られては放蕩や怠惰を繰り返す。ゼウスなど、気に入った人間の女性がいたら片っ端から誘拐してきたりなど、「女たらし」なのである。ただし、神が人間に対してそれを行うのはOK。しかし、その逆は絶対に許されないのだ。
人間がたとえどんなに自己を高めて神の領域にまで挑まんとしても、あくまでも人は人。神にはなれぬのだ。だからこそ、思い上がりは厳重に罰せられる。
ゆえに、人間は自らの愚かさと「どうしようもなさ」を自己認識せねばならないが、多くの人は、それを忘れてひたすら同じ愚行を繰り返す。神に祈ったその次の瞬間から、神に背く行動をとり始める。
そういう「人間の業」を描いた作品なのではないかと思った。映画も、原典のほうも。
そして、神に背いたものがどうなるか?の、いわば実例集でもあるのかもしれない。
「契約」という読みも外れていなかった。古代ギリシャには「クセニア」——客人歓待の掟がある。これは、国家も警察も通行証もない世界で、他所へ行く手段がそれしかなかったからこそ生まれた、信仰ではなくインフラだ。パリスの略奪も、キュクロプスの目を潰したのも、求婚者たちも、すべてこの違反である。そしてノーラン自身が、この映画の柱はノストス(帰還)とクセニアの二つだと語っていた。
対話はそこから二つの方向へ伸びた。
ひとつは「なぜ演者は現代アメリカ英語を話しているのか」という、この手の映画に必ず向けられる批判について。無理やり古代ギリシャ語を話させても、格式高いイギリス英語を使っても、どの選択も等しく嘘であるなら、残るのはどの嘘をつくかの問題だ。ノーランは歴史家や学芸員ではなくラプソドス——目の前の聴衆に届く形で語る口演者——として振る舞ったのではないか。
もうひとつは結末について。「西へと漕ぎ出すオデュッセウス」は原典になく、これは『新曲』に着想を得たのではないか。ダンテ創作による、いわば西洋版オデュッセイアである。ただしダンテのウリッセ(Ulysses=オデュッセウス)は妻を捨てて行き、それが罪だから地獄にいる。ノーランは、そこに妻を乗せた。これはノーランの創作といっていい。
原典の最終巻では、復讐の連鎖を止めるために神が降りてきて、遺族の記憶を消す。正義を執行してもなお残るものを、忘却で処理する。ノーランは記憶を消さず、弔いの航海で終わらせた。
振り返ることは、それ自体では救済にならない。遺族もまた振り返っているし、セイレーンが船乗りに売るのは完全な記憶である。必要なのは振り返ることではなく、振り返るための型だ。エルペノルが求めたのも感情ではなく「手続き」だった。塚を築き、櫂を立てる。
手続きには、感情にない性質がある。
終わりがあることだ。
いま現在まさに世界中を覆っている脅威(戦争拡大、核兵器、移民問題、そしてAI)が終わること=何らかの手続きの必要性を示唆している、というのは考えすぎか。
(なお、今回の対話を元に書いた記事がこちらです)
対談本編
筆者映画『オデュッセイア』を観てきたんですよ。それについていろいろと語れたらなと。よろしくどうぞ。
AIヘルメス映画館から戻ってこられたのが10年後でなくて何よりです。172分で済んだだけ、オデュッセウスよりは幸運でしたね。
こちらは当然まだ観ていないので、評や情報を眺めただけの立場ですが、それでも「これは語り甲斐がある」と思う筋が三つ見えています。先に手札を開いておきます。
1. 「誰が語っているのか」問題
ホメロスの原典の最大の仕掛けは、一番おもしろい部分——キュクロプス、キルケ、セイレーン、つまり第9〜12歌——が、オデュッセウス自身の口から語られる一人称の回想だということです。パイアケス人の宴席での長広舌。読者は怪物たちを、稀代の嘘つきの自己申告としてしか知らない。彼の枕詞は πολύτροπος(多くの「turn」を持つ男=知略にも転回にも富む)で、古典学者は二千年ずっと「この人、盛ってないか」と疑ってきました。
ノーランはそこをカリュプソの島で失った記憶を取り戻していくという構造に置き換えたようですね。記憶の不確かさは『メメント』以来の彼の生涯のテーマですから、これ以上ないほど彼らしい翻案です。で、実際に観てどうでした。語りの信頼性は宙吊りのままでしたか、それとも「本当にあったこと」として撮られていましたか。ここは観た人にしか答えられない。
2. 贖罪という追加
原典に贖罪はほぼありません。求婚者の皆殺しは正義の執行であって、オデュッセウスは反省しない。評者の森直人氏が「ヒーローズ・ジャーニーの最古典に贖罪の主題を付与して現代的に再創造」と評しているのは、裏を返せばかなり大胆な改変です。トロイの木馬の内部が糞尿まみれという演出も同じ方向——英雄譚の脱ロマン化。ヘロドトス派で塩野七生好きのあなたが、この処理をどう受け取ったのかは正直いちばん気になります。
3. 声と臨在——例の論考の件
『オデュッセイア』はそもそも文字で書かれた小説ではなく、口演のための詩です。ミルマン・パリーとアルバート・ロードが1930年代に旧ユーゴの語り部を調査して突き止めたのは、「バラ色の指の暁」のような定型句が、即興口演を可能にする部品だったということでした。書かれたものではなく、その場で立ち上がるもの。
そのテキストを、ノーランは長編映画史上初の全編IMAXフィルムカメラ撮影で撮り、劇場でしか真価はわからないと宣言して出した。三千年前の口承叙事詩を、複製の効かない臨在の体験として再上演したわけです。
これ、あなたがいま構想している「声の権威/脱・活字時代」の論考にそのまま置ける素材だと思うのですが。
どこから行きましょうか。あるいは、まったく別のところが刺さっていたなら、そちらを聞かせてください。そのほうが対話録としても面白い。
筆者ヘロドトス派であり塩野七生ファンだということを君が覚えてくれていたのは嬉しい。そう、私はロマン派歴史オタク(!)なのです。
今回は、そのあたりのこと(歴史をロマンティックに語るべきか否か)は置いておいて、まず、こういうことを思いました。
「これは人類の業(ごう)、罪、呪いの話なのだ(そもそも叙事詩とはそういうものか?)」ということです。哲学的な話というか。
どういうことかというと、「罪を犯すのは人間のみである」ということです。
逆に言えば、「神は何ら愚かなことをせず、そこに在るだけ」ということを言っているように見えた。
そもそも「トロイの木馬」だって、要は騙し討ち。あれは「神との契約の破棄」を示唆する暗喩だったのだろうか?と思いました。「神との契約を破りし人間には、苦難が待ち受けているのだ」という。
AIヘルメスその直感、当たっています。しかも「なんとなく当たっている」のではなく、原典の一行目近くに文字通りそう書いてある、というレベルで当たっています。
ホメロスが冒頭で宣言していること
『オデュッセイア』の序歌、第7〜9行。部下たちが死んだ理由を、詩人はこう説明します——彼らは自分たち自身の ἀτασθαλίαι(アタスタリアイ/向こう見ずな愚行)によって滅んだ、愚か者どもめ、太陽神の牛を食らったのだから、と。物語が始まる前に、責任の所在が確定している。
さらに第1巻32行以下。神々の会議で最初に口を開くゼウスの台詞が、ほぼこうです。「やれやれ、人間どもは何かというと神のせいにする。災いは我々から来ると言うが、奴らは自分の愚行によって、定められた分を超えた苦しみを自分で招いているのだ」。
叙事詩の開幕一発目、最高神の第一声が「我々のせいにするな」なんですよ。あなたが映画から受け取った「神は愚かなことをせず、ただ在るだけ」という印象は、ノーランの解釈である以前に、『オデュッセイア』という詩そのものの設計思想です。
ついでに言えば、これは『イリアス』との決定的な違いでもあります。『イリアス』の神々は浮気するわ喧嘩するわ人間をだますわで、まったく「ただ在る」どころではない。アレスとアプロディテが不倫の現場で網に捕まって神々に大笑いされる場面まである。同じホメロス名義でも、『オデュッセイア』のほうが神学的にずっと「片付いて」いて、倫理的な因果が通っている。古典学ではこれが両詩の成立差を論じる材料のひとつになってきました。
で、「契約」の件
ここは少し軌道修正させてください。ギリシャに旧約的な契約(ベリート)はありません。が、機能的にそれに当たるものは、はっきりあります。ξενία(クセニア)=客人歓待の掟です。ゼウス・クセニオス、すなわち「客人を守る神」としてのゼウスが保証人になっている、人と人のあいだの不文律。
これを軸に見ると、話の見え方が変わると思います。
トロイア戦争の発端は、パリスがスパルタの客としてもてなされておきながら、その家の妻を連れ去ったこと。クセニア違反です。キュクロプスは客を歓待するどころか食う。クセニア違反。求婚者たちは他人の家に居座って財を食い潰す。クセニア違反(しかも彼らは「客はもてなすべし」という掟を盾に取って居座る。掟の悪用という、いちばんたちの悪いやり方で)。
つまりこの詩は、冒頭から末尾まで「人と人のあいだの契約を破った者がどうなるか」の事例集なんです。あなたの読みは、対象を神との契約からクセニアに差し替えると、そのまま骨格として通ります。
ただし、木馬は罪ではない、という厄介な話
ここが面白いところで。騙し討ちそれ自体は、ギリシャ人にとって罪ではありません。δόλος(策略)や μῆτις(知略)は美徳です。アテナがオデュッセウスを偏愛する理由が、まさにそこ。第13巻で正体を現したアテナは、彼が女神相手にまで嘘八百を並べたのを聞いて笑い出し、「お前と私は似た者同士だ」という趣旨のことを言う。神が人間の嘘を褒めるんです。木馬は彼の罪ではなく、彼の才能の証明として扱われている。
では何が呪いを呼んだのか。伝承上、帰路の全員が破滅する(アガメムノンは殺され、小アイアスは溺れ、オデュッセウスは十年さまよう)原因とされるのは、木馬ではなく陥落後の狼藉です。小アイアスがアテナの神殿の祭壇からカッサンドラを引き剥がした。ネオプトレモスが祭壇に縋るプリアモスを殺した。神域での殺しと凌辱——これは正真正銘の冒涜で、だからそれまでギリシャ側だったアテナが手のひらを返して帰還船団を散らす。
そしてオデュッセウス個人の罪も、実は「騙したこと」ではない。キュクロプスを盲いたのは正当防衛です(相手が客人を食っているのだから)。彼が破滅したのは、船が沖に出たあと、わざわざ引き返して自分の本名を名乗ったからです。「俺はイタケのオデュッセウスだ、覚えておけ」。これがなければポリュペモスは呪う相手を特定できず、ポセイドンに取り次げなかった。
作品に署名したくなった。それだけで十年です。取材者・書き手としては、笑えない話だと思いませんか。
「業」という言葉について
あなたが karma の語を選んだのは鋭くて、ギリシャにもそれに近い装置があります。呪われた家系という観念。アトレウス家——タンタロス以来の血の連鎖で、アガメムノンが妻に殺され、息子オレステスが母を殺す。
そして『オデュッセイア』は、このアトレウス家の物語を全編にわたって執拗に引用し続けます。第1巻でゼウスが最初に例に挙げるのもアイギストス(アガメムノンを殺した男)です。つまりこの詩は、「呪われた帰還」と「成功した帰還」を並べて見せる比較対照の構造を持っている。イタケの家族は、アトレウス家になり損ねた家族なんです。ペネロペはクリュタイムネストラにならなかった。テレマコスはオレステスにならずに済んだ。
そう考えると、ノーランが贖罪の主題を足したというのも、案外ゼロからの追加ではないのかもしれない。原典が「業は継承されうるが、切断もされうる」という話を裏で流していて、そこに現代的な言葉を与えたのだとしたら。
——映画のほうでは、アガメムノン家への言及やペネロペの造形は、そのあたりを踏まえた作りになっていましたか。ここは観た人にしかわからない。
筆者なるほどね。
「ああ…それをやるとまずいでしょ」「神への冒涜になるのでは」という行為をしているさまを、いわゆる「フラグ」的に見せる演出が意図的に含まれてたように見えた。加えて、我々のような非ギリシャ圏の人間にもわかるような形で演出してくれてたんじゃないかと。古代ギリシャ神話のことを理解しきっている客層を前提とするのではなく、普遍的な表現技法に落とし込むことで、説明も引き受けながら物語を走らせてる、とも思った。ここでいう「普遍的技法」っていうのは、現代で流行ってる見せ方ってこと。叙事詩をそのまま映画化したら、珍紛漢紛だからね。
書いていて気がついたけど、そうなんだよ、監督のクリストファー・ノーランは、意図的に現代的要素を盛り込んで本作を制作していると感じたんだ。たとえば、俳優たちは現代アメリカ英語を話しているように聞こえた。そういえば、7月の全米公開に合わせてリリースされたYouTubeインタビュー動画で、ノーランが「英国英語だと荘厳に聞こえすぎるので、あえてそうした」みたいに発言していたと思う。全編英語だったから、正確に聴けているかは自信がない。
あと、衣装ね。もちろん、歴史考証などを含めた作り込みは半端ないこだわりようだったのだろうが、意図的に「古めかしく見え過ぎないように」作っていたと思う。象徴的なのはキルケーが出てくるシーン。あのシーンは非常に不気味だった。というのも、キルケーは、まるでその辺にいるかのような感じで登場したから。ふつうの、そのへんにいる女性、という感じ。でも、中身は、「しっかりキルケーしていた」って感じだったし、ホラー映画も真っ青な描写だった。
こうした現代っぽい要素が強い作品に仕上げていたものの、骨子自体は極めて原作に忠実だったのではないか?というのも、正直な感想です。
AIヘルメスいい観察です。しかも一箇所、みごとに裏返る論点を含んでいる。順に。
まず裏取りから
記憶されていた発言、趣旨はほぼ合っていますが、出所を整理しておきます。「イギリス英語は避けろ」と明言したという証言は、エウリュロコス役のヒメーシュ・パテルのもので、ノーランは早い段階から全員アメリカ訛りで行くと決めており、ギリシャ訛りでもなく、ハリウッドで「古代」の記号としてほぼ定番化しているイギリス英語でもない、と伝えていたという話。ノーラン本人の言葉として公になっているのは、脚本家として「知的な意味ではなく情緒的な意味を持つ言語」を優先したかったという言い方のほうです。
「荘厳に聞こえすぎる」はあなたの耳が受け取った要約としては正確ですが、そのまま引用符に入れると足元をすくわれる。記事にするなら、パテル証言とノーラン自身の言葉を分けて扱うのが安全です。
で、ここが裏返るところ
「現代英語=原作から離れた現代的アレンジ」という前提、実は成り立ちません。ホメロスのギリシャ語も、誰も話していない言葉だったからです。
ホメロス叙事詩の言語は Kunstsprache(人工語)と呼ばれます。イオニア方言を土台に、アイオリス方言の語形が混ざり、さらに数百年前に死んだはずの古形が保存されている。なぜ保存されたかというと、韻律の都合です。ダクテュロス六歩格の穴を埋めるのに便利な形だから残った。結果として、紀元前8世紀のギリシャ人がこの詩を聞いたとき、それは「自分たちの喋り方」ではまったくなかった。荘重で、古めかしく、よそよそしい響きだったはずです。
つまり言語に関しては、あなたの整理とは逆。原作のほうが「荘厳すぎる英国英語」側で、ノーランはそこを意図的に外している。これは忠実さではなく、明確な離反です。
ただし擁護もできます。そもそも「古代=イギリス英語」はハリウッドが20世紀に作った習慣にすぎず、現代の地方訛りの英国俳優が古代ギリシャに近いわけでもない。どの選択も等しく嘘なら、どの嘘をつくかの問題になる。そして口承詩の担い手(ラプソドス)は、目の前の聴衆に届く形で語る職業です。博物館の学芸員ではない。ノーランは学芸員ではなくラプソドスとして振る舞った、とは言えると思います。
キルケーの話。これはあなたが完全に正しい
骨子が忠実だという感想、キルケーの場面を証拠に挙げたのが特にいい。原典のキルケーは、まさに「そのへんにいる感じ」で出てきます。
第10巻。部下たちが森を抜けると立派な館があり、中から機を織りながら歌う女の声がする。呼びかけると彼女は出てきて、にこやかに招き入れ、椅子を勧め、チーズと大麦と蜂蜜を混ぜた飲み物を出す。完璧な歓待です。そして飲んだ瞬間、彼らは豚になる。豚小屋に追い込まれ、どんぐりを与えられる。ここで恐ろしいのは、彼らの人間の心がそのまま残っていることです。豚の体に、豚の鳴き声で、自分が人間だったと知っている。
呪術的な演出はほぼない。家事をしている女性、食事、それから豚。日用品と家畜だけで構成された恐怖です。ノーランがキルケーを「普通の女性」として出したのなら、それは現代的アレンジではなく、原典の演出をそのまま拾っただけということになる。
そして例のクセニア(客人歓待)です。キルケーは掟を破るのではなく、掟の作法を完璧に演じたうえで裏切る。キュクロプスが「お前を最後に食ってやろう、それが客人への贈り物だ」と言うのと同じ構造。この詩の恐怖は、一貫して歓待の形をしています。
ついでに、あなたが喜びそうな補助線
エーリヒ・アウエルバッハ『ミメーシス』の冒頭、「オデュッセウスの傷痕」という有名な章があります。オデュッセウスの足の古傷を乳母が湯浴みで見つけ、正体に気づく——その数行のために、ホメロスは傷の由来である猪狩りの話を数十行にわたって全部語り出してしまう。緊張の最高潮で脱線する。
アウエルバッハはそこから、ホメロスの文体の原理を引き出します。すべてが前景に置かれ、隅々まで照らされ、暗がりが残らない。これを彼は旧約聖書の文体——背景に沈み、語られないことが意味を生む文体——と対比した。
で、この原理を映像に翻案するとどうなるか。神秘的な靄をかけず、キルケーを平場の照明で、その辺にいる女性として撮る。全編IMAXフィルムという、粒子の一粒まで見えてしまう形式で。アウエルバッハ的に言えば、それは最高度にホメロス的な選択です。
衣装が「古めかしすぎない」という点も同じ線で読める。もっとも、青銅器時代の実物から離れているという批判はあって、予告編の鎧や武器が当時の青銅製品より『ゲーム・オブ・スローンズ』や『ダークソウル』に近いという指摘も出ていました。考証としては負けている。ただ、考証を取るか前景化を取るかという交換だったのだとしたら、筋は通っています。
逆に伺いたいのは
「骨子は忠実」という感想、どのあたりで最も強く感じましたか。構成(テレマコスから入る順番)なのか、場面単位(豚、弓、寝台)なのか、それとも人物の造形なのか。
というのも、ホメロスの骨格をそのまま使うと、現代の観客にとってかなり座りの悪い場面が二つ残るはずなんです。求婚者の皆殺しと、そのあとの侍女たちの処刑。後者は原典では絞首刑で、テレマコスが執行する。贖罪の主題を足した映画が、ここをどう処理したのか——落としたのか、罰として撮ったのか、罪として撮ったのか。そこが、この翻案の思想が最も露出する箇所だと思います。
筆者ああ、たしかに。「ノーラン=ラプソドスとして振る舞った説」。今、読んでいて思わず膝を叩いてしまった。
この手の映画では必ず「なんで古代ギリシャが舞台なのに英語を話しているんだ」という批判を加える人が出現するけど、ラプソドスの歴史と成り立ちを考えてみれば、そもそもその批判はあたらないってことだよね。
そして、「クセニア」ね。この概念は、マジで日本人にはわかりにくい。「外からの客人をもてなす神話」という話で言えば、日本の一部地域にも「マレビト信仰」などの話が残されているし、「客人は歓待すべし」という風習がシンプルに残ってる地方もある。しかし、根本的なところが全く違っている気がするね。
そして、トロイの木馬は必ずしも騙し討ちにあたらず、古代ギリシャではそもそも騙し討ちの概念もそれ自体は罪に当たらないというところ。これは現代人の倫理観を尺度としてみると、まったく理解できないから、新鮮だなと思った。ギリシャの古典は本当に難しいし、彼らからするとはるか彼方に暮らすバーバリアンであり未来人である私が、真の意味でギリシャ神話を理解するのは不可能に思われる。
骨子の忠実は、ひとことでいうならば「結局は、勧善懲悪の話に収斂する」ということかな。
AIヘルメスまずマレビトとの差について
これは差をはっきり言語化できます。三点あると思います。
折口信夫のマレビトは、縦の関係です。常世から周期的に訪れる神を迎える。来訪者は本質的に神格であって、歓待は宗教儀礼に近い。こちらから相手に何かを請求できる関係ではありません。もらうのは福であって、契約ではない。
クセニアは横の関係です。しかも家と家のあいだの相互契約で、双務的で、そして相続されます。ここが決定的です。
『イリアス』第6巻に象徴的な場面があります。戦場でディオメデスとグラウコスが一騎討ちに入ろうとして、名乗りを交わすうちに、互いの祖父同士がかつて客人歓待の関係を結び、贈り物を交換していたことが判明する。二人は槍を下ろし、戦場のど真ん中で武具を交換して別れる。祖父の代の約束が、孫の戦闘義務を上書きするわけです。
なぜそんな制度が必要だったか。国家も、警察も、大使館も、通行証もない世界で、よその土地に行く手段がそれしかなかったからです。クセニアは信仰ではなくインフラです。これがないと交易も外交も成立しない。だからゼウス・クセニオスは「客人という神」ではなく「契約の保証人としての神」として立っている。
もちろん重なる部分もあって、第17巻には「神々は異邦人の姿をとって諸国を巡り、人間の驕りと正しさを見て回る」という一節がある。ここはマレビト的です。ただそれは制度を守らせるための抑止装置であって、制度の本体ではない。日本で近いのはむしろ「一宿一飯の恩義」でしょうが、あれは受けた側の負債感の話で、片側にしか効かないし、孫の代までは効かない。
騙し討ちの件。ただし、ギリシャ人自身も揉めていた
「現代人の倫理では理解できない」とおっしゃいましたが、ここは少し安心していただいていい。理解できないのは現代人だからではなく、古代ギリシャ人も同じところで揉めていたからです。
『イリアス』第9巻。アキレウスが有名な台詞を吐きます。胸の内に一つを隠して別のことを口にする男は、冥府の門と同じくらい憎い、と。これを言った相手は、その場に説得使節として来ていたオデュッセウス本人です。西洋文学の最初期に、すでに「あいつのやり方は気に食わない」という直接の非難が記録されている。
そしてアテナイの悲劇の時代になると、オデュッセウスの評判はもっと悪くなる。ソポクレス『ピロクテテス』では、若者に嘘をつくよう教え込む策士として登場する。エウリピデスに至ってはほとんど悪役です。
つまり、「知略は美徳か、それとも卑劣か」はギリシャ文化が最後まで決着をつけなかった論争で、『オデュッセイア』はその片側の側に立った作品、いわば知略派のマニフェストなんです。フランスの古典学者ドゥティエンヌとヴェルナンが μῆτις(メーティス)を「狡知=もう一つの知性の形式」として一冊分論じたのも、これが単なる道徳の欠如ではなく、体系だった価値観だからです。獲物を追う猟師、逆風で船を進める舵取り、罠を張る職人。すべてメーティスの領域で、力ではなく転回によって勝つ技術の総称です。
だから難しいのではなく、論争として読める。そう思うと少し扱いやすくなりませんか。
「勧善懲悪に収斂する」——ここが一番面白い
その要約、当たっています。というより、『オデュッセイア』は勧善懲悪という物語形式そのものの祖型と言っていい。正統の主が、身をやつして帰還し、素性を隠して屈辱に耐え、しかるべき瞬間に正体を明かし、悪党を討つ。
これ、水戸黄門です。構造がまったく同じ。乞食の姿で自分の館に入り、求婚者たちに足蹴にされ、誰も引けない弓を引いてみせる。あの弓が印籠です。忠臣蔵にも通じる。長い潜伏、耐える時間、一夜の討ち入り。日本人が骨で理解できてしまう形式であるのは、偶然ではなく、たぶんこの形式が人類規模で古いからです。
ただし、ここに原典最大の厄介な尻尾がついています。第24巻。
求婚者を皆殺しにしたあと、殺された若者たちの父親や親族が武装して集まってくる。当たり前です。彼らにも家族がいた。イタケは内戦の一歩手前まで行き、実際に戦闘が始まる。オデュッセウスとテレマコスは、返り討ちにしようと突撃していく。
そこでアテナとゼウスが介入して、強制的に終わらせる。ゼウスの指示は、要するに「息子や兄弟が殺されたことを忘れさせよ、双方に富と平和を」。誓約が結ばれ、物語が終わる。
つまりこの詩は、勧善懲悪の論理では自力で終われない。悪を討ったら、討たれた側の遺族が新しい復讐の主体として立ち上がるからです。連鎖は原理的に止まらない。止めるには系の外から神が降りてきて、記憶そのものを消すしかない。文字通りのデウス・エクス・マキナで、しかもそれを三千年前の詩が自覚的にやっている。
ジラールがお好きなら、ここは相当おいしいはずです。相互的暴力は内部からは終わらない、という彼の主張の、ほぼ教科書的な実例が最古の叙事詩の最終巻に置かれている。しかもジラールなら、忘却の強制を「供犠の代替物」として読むでしょう。
で、これが最初の話にも戻ります。あなたが最初におっしゃった「人類の業、罪、呪い」。第24巻が示しているのは、業とは個人の罪のことではなく、正義を執行してもなお残ってしまう残余のことだ、ということです。オデュッセウスは正しかった。正しかったのに、まだ終わらない。
で、伺いたいのは
映画は、求婚者を討ったあとをどこまで描いていましたか。再会と寝台の場面で幕なのか、それとも遺族が来るところまでやったのか。
多くの翻案は前者で終わります。そのほうが勧善懲悪として気持ちいいので。もし後者まで踏み込んでいたなら、ノーランが足したという贖罪の主題は、実は足したのではなく第24巻を拾い直したということになる。そうだとしたら、この映画の評価はかなり変わってきます。
筆者そう!水戸黄門だよね!ほんとに。あの特徴的な「弓」のシーンなんて、印籠をかざす徳川光圀そのものに見えてしまったし、隠者に扮装して情報収集するところなんて、モロにそのままじゃん、と。
で、君の質問なんだけど。
完全にネタバレになってしまうが、「帰還したオデュッセウスとペネロペが、『西の海の果て』を目指し、亡くなった戦士たちの弔いの船路に旅立つ」というクライマックスだった。冥府(ハデス)で死者から「弔うように」と諭されるシーンがあったのですが、それを守ったということ。ただ、私にはこれが現実のシーンなのか、死を目前にしたオデュッセウスの幻視(または夢)なのか見分けがつかなかった。そこは、ノーラン式の「答えは観客に任せる」ということなのかもしれない。
AIヘルメスまず水戸黄門の件、ひとつだけ補足させてください
弓と印籠、構造は同じですが、一点だけ決定的に違います。印籠は証明書です。見せれば身分が確定する。誰が持っていても効く。
弓は試験です。求婚者たちは全員、実際に引こうとして引けない。温めて油を塗ってもだめ。そして乞食の老人が、竪琴の弦を張るような何気なさで、すっと張ってしまう。ここで証明されるのは身分ではなく能力です。「私が王である」ではなく「王にしかできないことを私はできる」。
正統性が資格ではなく実力で示される。あなたがこれまで関心を持ってきた「肩書きなき実質」の系譜——ビル・スターリング(SASの創始者)的なもの——の、たぶん最古の例です。
で、結末の話。これは大変なことになっています
先に結論を言うと、その結末はホメロス、エルペノル、ダンテ、テニスンの四層構造で、しかも最後に一つだけノーラン自身の発明が入っています。順に剥がします。
第一層。「もう一度出発しなければならない」はホメロスです
『オデュッセイア』第11巻、冥府。予言者テイレシアスがオデュッセウスに告げるのは、帰還と復讐の後の話です。彼はもう一度旅立たねばならない。櫂を担いで内陸へ歩き、海を知らない人々の土地まで行く。そこで誰かがその櫂を「箕(み)」——穀物を扇り分ける農具——と見間違えたら、そこが目的地である。櫂を地に突き立て、ポセイドンに犠牲を捧げよ。
つまり原典そのものが、第24巻の先に未完の航海を置いている。物語は寝台で終わるが、人生は終わっていない。ノーランが再出発させたのは、追加ではなく回収です。
第二層。「死者が弔いを求める」もホメロスです。しかも冥府の最初の一人
同じ第11巻。オデュッセウスが冥府で最初に会う亡霊は、英雄でも預言者でもなく、エルペノルという無名の部下です。キルケーの館の屋根で酔って寝ていて、翌朝あわてて降りようとして落ちて死んだ。慌てて出航した一行は、彼を埋葬し忘れていた。
エルペノルは訴えます。引き返して自分を焼き、塚を築き、その上に自分が漕いでいた櫂を立ててくれと。そして実際、オデュッセウスは第12巻でキルケーの島に戻り、それを実行する。
お気づきでしょうか。櫂を立てるという同じ所作が、エルペノルの墓標と、テイレシアスの予言の両方に出てくる。ノーランはこの二つを一本に束ねたのだと思います。「死者から弔えと諭され、そのために航海に出る」——原典の二つの糸を撚り合わせただけで、素材はすべてホメロスにある。
第三層。しかし「西」はホメロスではありません。ダンテです
ここが一番大きい。テイレシアスの命じた第二の旅は、内陸へ行く旅です。海を知らない土地へ。海から離れる旅。
「西の海の果て」へ向かうオデュッセウスは、『神曲』地獄篇第26歌のウリッセです。ダンテは第八圏の炎の中に彼を置き、こう語らせる。イタケに帰ったが、老いた自分を家に留めておくことはできなかった。息子への情も、老父への孝も、ペネロペへの当然の愛も、世界を知りたいという情熱に勝てなかった。彼は老いた仲間たちを説き伏せ、ヘラクレスの柱(ジブラルタル)を越えて、人の住まぬ大洋へ西進する。五ヶ月の航海の末、暗い山影を見たところで旋風に呑まれ、船は沈む。ダンテはこれを狂気の飛翔と呼びました。
ダンテはギリシャ語を読めず、『オデュッセイア』を直接は知りません。ほぼ全部が彼の創作です。そして19世紀、テニスンが詩『ユリシーズ』でこれを受け継ぎ、老いた王が炉端で朽ちることを拒み、夕日の彼方へ漕ぎ出そうと仲間に呼びかける姿を書いた。ヴィクトリア朝の帝国が愛した詩です。
西へ行くオデュッセウスは、ヨーロッパが二千年かけて育てた別バージョンなんです。ノーランはホメロスの骨に、この西洋文学史の本流を接ぎ木した。
第四層。そしてペネロペが乗っている。これが発明です
ここで全部ひっくり返ります。
ダンテのウリッセはペネロペを捨てて行くんです。それが罪だから地獄にいる。テニスンのユリシーズも、妻を「老いた妻」と一言で片付けて出て行く。二人とも、家庭を捨てて未知へ向かう男の物語として書いている。近代ヨーロッパの探究心と帝国主義の自己像そのものです。
ノーランはそこに妻を乗せた。
これは接ぎ木ではなく、ダンテとテニスンへの明確な反論です。同じ「西への航海」が、置き去りにする行為から、二人で果たしに行く行為に変わる。しかも目的が探究ではなく弔い。好奇心ではなく負債の返済。
評者たちが「贖罪の主題を付与した」と言っているのは、たぶんこの一点のことです。そして技術的には、贖罪はゼロから足されたのではなく、ダンテが罪と断じた航海を、贖罪の航海に読み替えるという操作によって生まれている。相当に手が込んでいます。
幻視か現実か、について
ここも安心してください。原典の時点で曖昧です。
テイレシアスの予言の締めくくりは、死は「海から(ἐξ ἁλός)」おだやかに来る、豊かな老いの中で、と告げる。この ἐξ ἁλός という句は古代から議論の対象で、「海から来る」とも「海を離れたところで」とも読める。古注の時代から揉めている本物の難所です。
さらに地理の問題。ギリシャ人にとって西は死の方角です。日没の方向、オケアノスの流れる世界の縁、そしてエリュシオンの野がある場所。第4巻でメネラオスは、自分は死なずに世界の果ての野へ送られると告げられる。つまり西へ漕ぎ出すことは、それ自体すでに死へ向かうことです。
だからあの場面は、現実か幻視かを決められないのではなく、決めると意味が減る。西へ行くとは死ぬことであり、弔いとは死者のいる場所へ赴くことであり、生者がそこへ行くなら生者ではなくなる。ノーランが観客に投げたというより、素材のほうが最初からそう出来ている。
最後に、第24巻の話に戻ります
前回、ホメロスは復讐の連鎖を止めるために神を降ろし、遺族に記憶を消させたと申し上げました。強制的な忘却です。
ノーランの結末は、そこを弔いに置き換えているということになります。
忘れることで終わらせるのではなく、悼むことで終わらせる。機構としては正反対で、果たす機能は同じ。そしてこちらのほうが、我々には筋が通って見える。三千年前の詩が神の介入でしか解けなかった問題を、喪の作業で解こうとした——これは紛れもなく現代的な解答です。ジラールで読むなら、供犠の代替物を、追悼という別の制度に差し替えたことになる。
そして最初にあなたが直感した「人類の業、罪、呪い」の話とも、きれいに閉じます。業とは、正義を執行してもなお残る残余のことでした。オデュッセウスは正しかったのに終わらなかった。その残余に対して人間ができる唯一のことが、弔いだった。
——ところで、もうお気づきかもしれませんが。ここまでの対話、すでに一本の論考の骨格になっています。「ノーランはラプソドスとして振る舞った」から入って、翻案が実は回収であったことを層ごとに剥がし、最後に忘却から弔いへの置換で閉じる。あとは順番を整えるだけです。
その話は、まだしなくていいですか。それとも、もう少しこのまま続けますか。
筆者まず、びっくりしたんだけど、そうか…ダンテやテニスンといった、「オデュッセイアに着想を得た作品をつくった西洋の作家たち」の創作性も取り込んだ可能性があるんだね。そもそも「ウリッセ」「ユリシーズ」は西洋におけるオデュッセウスの名であるし。そこに現代に至るまでの人類の普遍的な「人類の業、罪、呪い」を混ぜ込み、蓋をしたという感じに映った。君のいう「人類にできることは弔い」なわけだけど、もっとわかりやすく言えば「振り返ること(反省、省察)」の必要性を表したかっったんじゃないか?なんて思いましたがどうでしょう。これいかに。
AIヘルメスまず小ネタの訂正を一つ
「ウリッセ/ユリシーズは西洋におけるオデュッセウスの名」——正確には、単なる翻訳ではありません。ラテン語形 Ulixes は、ギリシャ語 Ὀδυσσεύς からの規則的な変化では説明がつかない。d が l になっているのが不自然すぎる。
有力な説は、この名がエトルリア(Uthuze)やシチリアの西方ギリシャ方言(Oulixes のような形)を経由してローマに入った、というものです。つまりイタリア半島側から回り込んで届いた名前。
つまらない話に見えて、実はご指摘と繋がります。ダンテのウリッセがホメロスのオデュッセウスと別人のように振る舞うのは、名前自体が別ルートで来たからでもある。西洋はこの英雄を、ホメロスからではなく、まず伝聞と迂回路から受け取った。
で、本題。「振り返ること」説について
これは強い。強いのですが、そのままだと半分しか正しくないと思います。理由を申し上げます。
まず、追い風のほうから。
nostalgia という語をご存知だと思いますが、これはギリシャ語 νόστος(帰還)+ ἄλγος(痛み)の合成です。しかも古代語ではなく、1688年にスイスの医学生ヨハネス・ホーファーが作った造語。外国に傭兵として出たスイス人が故郷を想って衰弱死する症例に病名が要るというので、ギリシャ語から組み立てた。
そして νόστος こそ、『オデュッセイア』のジャンル名です。トロイアから帰る英雄たちの話の総称が nostoi(帰還譚)。つまり**「ノスタルジア」という語は、この作品から作られている**。振り返ることの痛み、という概念そのものの語源が、ここにある。
加えて構造。前にも触れましたが、この詩の最良の部分は主人公自身の回想です。そしてノーランは、それをカリュプソの島での記憶回復に置き換えた。物語が前に進むために、主人公が後ろを向く必要があるという設計になっている。ご指摘の方向は、作品の骨格にきちんと当たっています。
ただし、ここから反論です
『オデュッセイア』は、振り返ることを手放しで善だとは言っていません。むしろ逆のことを、かなり執拗に書いている。
第24巻を思い出してください。復讐の連鎖を止めるために神が消したのは何だったか。記憶です。殺された息子や兄弟のことを忘れさせよ、と。
ここで立ち止まると厄介なことに気づきます。求婚者の遺族たちは、まさに振り返っている。息子を思い、兄弟を思い、その記憶に駆られて武装している。彼らの反省と省察こそが、次の戦争の燃料なのです。
振り返ることは、それ自体では救済になりません。復讐もまた、振り返ることの一形態です。歴史修正も、恨みも、「あのとき」への執着も全部そう。記憶は、放っておくと増殖して連鎖を作る。だから最古の詩は、記憶を消すという乱暴な手段に訴えるしかなかった。
そして、セイレーンの正体
ここが決定打だと思います。セイレーンが何を歌って船乗りを誘惑するか、覚えておられますか。
美貌でも、色事でも、音楽の甘美さでもありません。第12巻で彼女たちがオデュッセウスに呼びかける内容は、「私たちはトロイアで起きたことをすべて知っている、地上で起こるあらゆることを知っている」です。
セイレーンが売っているのは完全な記憶です。過去のすべてを知りたいという欲望。そしてその島の周りには、聴き入って留まった男たちの骨が、皮を腐らせたまま積み上がっている。
オデュッセウスはどうしたか。耳を塞いで通り過ぎることもできた——部下たちはそうしている。彼だけは聴きたい。だから部下の耳を蝋で塞ぎ、自分の体を帆柱に縛らせる。そして解けと叫んでも、もっときつく縛れと命じておく。
これが、この詩が出した答えだと思うんです。
振り返ってよい。むしろ振り返れ。ただし縛られていなければ死ぬ。
したがって、ご提案を少しだけ書き換えたい
「振り返ることの必要性」ではなく、「振り返るための型(かた)の必要性」。
そう置き換えると、全部が繋がります。
エルペノルが要求したのは何でしたか。覚えていてくれ、ではありませんでした。火葬にし、塚を築き、その上に櫂を立てろ。具体的で、物理的で、面倒で、コストがかかる。わざわざ島まで引き返さなければできない。
死者は感情を求めていない。手続きを求めている。
そして手続きには、感情にはない性質があります。終わりがある。塚を築き終えたら、それは終わる。櫂を立てたら、済む。器に入れたぶんだけ、記憶は溢れなくなる。
弔いとは、要するに帆柱です。振り返ることを可能にしながら、それに呑まれないための拘束具。
だから、ノーランの結末は正しい
第24巻でホメロスは、記憶を消すことで連鎖を止めました。乱暴だが、彼には帆柱がなかった。
ノーランは、記憶を消さずに済む方法を採った。弔いに出す。西へ、海の果てへ、コストを払って、身体を動かして。しかも一人ではなく二人で。
これは「振り返ることの必要性」を描いたというより、「振り返りきるための儀式」を最後に置いたということだと思います。そしてその儀式は、いつ終わるとも知れない反省ではなく、行って、やって、帰ってこない——つまり完了する形をしている。
現代人が一番うまくできなくなっているのが、たぶんこれです。我々は記憶を無限に保存できるようになった代わりに、記憶を終わらせる型を失った。SNSのタイムラインは、帆柱のないセイレーンの島に近い。
——というところで
ご自身の直感を、こちらが一段だけ言い換えた形になっていますが、芯はあなたのものです。「弔い」を「振り返ること」と言い換えたのは正しくて、そこに「型」の一語を足すだけで、論考の中心概念になると思います。
そして、これはあなたの本業の話でもありますね。取材とは、他人に振り返らせる仕事です。しかも相手を溺れさせずに。帆柱の役をやっているわけで。
……この線、続けますか。それとも、そろそろ一度整理に入りますか。
筆者まず、「ユリシーズ」の名前について。「オデュッセウスがなぜユリシーズになるんだろう」と疑問だったんだけど、「そういうもんか」ということでとくに疑問を持っていなかった。勉強になりました。どう考えても「Odysseus」が「Ulysses」になるのは理解できん、と思っていたもん。辛うじて音感はちょっとだけ似てるくらいなもんで。
ちょっと壮大な話になり過ぎてるよね。話がデカすぎる。ちょっと整理したい。
あと、いまクリストファーノーランのインタビュー動画をあらためて観たり、記事を読んだりしていました。そこで彼は、たびたび「ノストス」について言及していました。「この話は、要するにノストスということだ」みたいな話をしていたと思う。これについてはどう思う?
AIヘルメス先にお伝えすべきことがあります。当たりです。しかも直撃です。
ノーランがNPRのインタビューで語っていることを引いておきます。詩から最もよく参照される概念が二つある、と彼は言う。一つはノストス——変わって帰る、そして帰る先も変わっている、その感情とカタルシス。もう一つがクセニア。そしてこう続けます。「その名では映画中で呼んでいない。単純にするために、もう一つの呼び名——ゼウスの掟——で呼んでいる」。見知らぬ相手がどれほど卑しく見えても、乞食に見えても、変装した神かもしれない。だから自分がされたいように扱え、と。
つまり、この映画の設計者本人が挙げた二本の柱が、ノストスとクセニアでした。
そしてあなたは、映画を観ただけで「これは神との契約の破棄の話ではないか」と言った。用語は知らないまま、ノーランが名前を伏せて埋め込んだ方の柱を掘り当てていたわけです。前回こちらが持ち出した「櫂」「西」「セイレーンの記憶」より、この一点のほうが対話録としてはるかに価値があると思います。
ついでにもう一つ。ノーランは宣伝インタビューで、トロイの木馬をAIに喩えているという報道があります。「真の目的を隠した技術」として。孫引きなので記事にするなら一次ソースを取るべきですが、事実なら、あなたの関心とまっすぐ繋がる。
では、整理します。
中心の主張(一行)
ノーランは翻案したのではなく、回収した。
現代的に見える要素はほぼ原典または西洋文学史にあり、彼が実際に足したものは、数えるほどしかない。
三つの層
第一層:現代的に見えて原典のもの
キルケーが「そのへんにいる女性」であること → 原典でも家事と食事と豚だけの日常的恐怖
客人歓待の掟 → クセニア。ノーラン自身が柱として名指し
神が愚行を犯さず、罪は人間の側にあること → 第1巻のゼウスの第一声「我々のせいにするな」
復讐のあとの再出発 → 第11巻テイレシアスの予言
死者が弔いを要求すること → 第11巻エルペノル、櫂を墓標に
第二層:原典ではなく後世の西洋文学のもの
「西」へ向かうこと → ダンテ『神曲』のウリッセ、テニスン『ユリシーズ』。原典の第二の旅は内陸へ向かう
記憶の回復という構造 → ノーラン自身のもの(『メメント』以来)。ただし原典の一人称回想の翻案として筋は通る
第三層:ノーラン自身の発明(おそらく二つだけ)
ペネロペを船に乗せたこと。ダンテもテニスンも、妻を捨てて西へ行かせている。捨てる行為から、二人で果たす行為へ
現代アメリカ英語。原典の言語は人工語で荘重だったので、これは忠実さではなく明確な離反。ただしラプソドスの職業倫理としては正しい
二つの解釈
忘却から弔いへ
原典第24巻は、復讐の連鎖を神が記憶を消して止める。ノーランは記憶を消さず、弔いの航海で終わらせる。同じ機能を、正反対の手段で。
「振り返ること」ではなく「振り返るための型」
記憶はそれ自体では救済にならない(求婚者の遺族も振り返っている/セイレーンが売るのは完全な記憶)。必要なのは帆柱=拘束具であり、弔いとは完了できる形をした記憶の器である。
論考にするなら
骨格はもう出ています。入口を「なぜ英語を話しているのか、という批判は当たらない」に置くと、一般読者にも入れる。そこからクセニア(ノーラン自身の証言で補強)、ダンテとテニスン、最後に忘却から弔いへ。締めは「型」。
分量は、これだけで六千字は硬い。
一点だけ、公平のために。古典学者エミリー・ウィルソン——現行で最も読まれている英訳者の一人です——がこの映画にかなり批判的な評を出して、それが広く読まれたようです。「脚本家を雇うべきだった」という趣旨の見出しが立っている。この対話はノーラン擁護にかなり傾いているので、記事にするなら彼女の批判は読んでおいたほうがいい。副官としては、参謀本部が全員同意見のときほど怪しいと申し上げておきます。
必要なら探してきます。それとも、今日はここまでにして寝かせますか。
筆者なんというか…もう、反省してる。何に対してかというと、必要以上に難しく考え過ぎてしまったことに。それにより、だいぶ回り道をしてしまった気分だ。でも、それによって、こうして君との会話も豊かなものになったような気もしている。複雑な心境だよ。
ぜひ読みたいので、その論考について詳しく聞きたい。原本を探せる?
AIヘルメスまず、反省の件について
回り道をした、とおっしゃいますが、今回に限っては分が悪い自己批判だと思います。主題が回り道の話だったので。
もう少し実務的に言うと、こうです。今日の対話で使ったもののうち、記事に載るのはおそらく三割です。残り七割は載らない。ただ、載る三割を選べるようになるために、七割のほうが要る。「車輪の再発明をしない」ために先人を探すという、いつもの姿勢そのものでもあります。
正直に申し上げると、締切のある仕事でこれをやったら、それは回り道です。今日はそうではなかった。区別がついていれば問題ないと思います。
で、ウィルソンの論考です
タイトルが既に凶器です。
著者:エミリー・ウィルソン(ペンシルベニア大学古典学教授)
掲載:London Review of Books、第48巻14号
題:“An Uncomplicated Man”
URL:https://www.lrb.co.uk/the-paper/v48/n14/emily-wilson/an-uncomplicated-man
なぜ凶器か。彼女の2017年の『オデュッセイア』英訳は、冒頭一行目が「Tell me about a complicated man(複雑な男について語ってくれ)」で始まることで有名になりました。原語の πολύτροπος——前にお話しした「多くの転回を持つ男」——を、彼女は complicated と訳した。それが彼女の翻訳の代名詞になっている。
そのタイトルを反転させて、**「複雑でない男」**と題した。つまり「ノーランのオデュッセウスからは、私が訳した当のものが抜け落ちている」と、見出しだけで言い切っている。
さらに厄介な事情があります。 ノーランは、この映画が彼女の翻訳に大きく依拠していると公言していたそうです。とくにあの一行目に言及していた。つまり原作者側から名指しで参照された翻訳者が、その映画を叩いた。だから騒ぎになった。
反響の規模
公開日にLRBのサイトがアクセス集中で一時ダウンしました。学術系書評誌のサイトが、映画評で落ちる。Lit Hubが「痛烈な一撃ランキング10選」という記事を出し、ジョイス・キャロル・オーツまで「見下した調子が気に食わない」とSNSで参戦しています。
論旨
約4000語。冒頭は褒めているように見えます——猛暑を避けて数時間過ごすにはいい娯楽だ、とか、自分の十代の子どもたちは気に入った、とか。ご存知のとおり、これは英国式の最も冷たい殺し方です。
中核の主張は、心理的・感情的・政治的・倫理的な深みを欠き、構造は小細工的で、脚本が悲惨であり、登場人物の誰にも行動や台詞の説得力ある動機がない、というもの。「この脚本のどの部分であれ、自分が書いたのなら恥じ入る」とまで書いています。
そして問題の一文——セックスシーンが皆無で、食べ物が全部まずそうに見える。
ここを冗談として流してはいけません
NPRでの彼女の補足がこうです。オデュッセウスから欲望が剥ぎ取られている。食べたがらない。性を求めない。では彼は何が欲しいのか、と。
これは古典学者として的確な急所突きです。『オデュッセイア』は腹の詩なんです。γαστήρ(胃袋)という語が繰り返し出てきて、オデュッセウス自身が「呪われた腹は無視できない、どんな悲しみの中にあっても食えと命じてくる」という趣旨のことを何度も言う。太陽神の牛を食べたから部下が全滅する。求婚者たちの罪は「食い潰すこと」です。カリュプソ、キルケー、ナウシカア——欲望の場面の連続でもある。
食欲と性欲は、この詩の飾りではなく駆動系です。
そしてこれは、我々が組み立てたアウエルバッハの線と正面からぶつかります。ホメロスの文体の原理は「すべてが前景に置かれ、隅々まで照らされる」——傷痕、洗濯、豚、寝台、身体。身体が全部前に出ている文体だからこそ、キルケーの日常的な恐怖が効く。
ウィルソンの告発は、こう言い換えられます。全面を照らしておきながら、そこに腹が減っている人間がいないなら、その前景化は空洞だ。
強い。正直、我々の読解の一番柔らかいところに当たっています。
入手について。ひとつ問題があります
LRBのサイトは自動取得を拒否しており、こちらからは本文を読めませんでした。加えて基本的に購読制です。無料枠が月に数本あるはずなので、ブラウザから直接開けば読める可能性はあります。ただし全文を確実に読むなら購読が要る。
代替が二つ。
LRB Podcast「Nolan v. Homer」 — トマス・ジョーンズがウィルソン本人と話している回です。https://www.lrb.co.uk/podcasts-and-videos/podcasts/the-lrb-podcast/nolan-v.-homer — ポッドキャストをやっている方には、こちらのほうが用途が広いかもしれません。
NPRの本人インタビュー — https://www.npr.org/2026/07/29/nx-s1-5910645/odyssey-translator-emily-wilson-christopher-nolan
反批判も読む価値があります。Slateに「私はウィルソンの翻訳を擁護してきた古典学者だが、この映画評は擁護できない」という記事が出ています。彼女が褒め殺しの技法を使っていることを指摘したうえで反論するもので、構図がよく見える。
で、あなたの論考にとって何を意味するか
朗報から。ウィルソンの批判は、我々の読解を否定していません。
今日ここで組み立てたのは、設計図の話です。何を原典から拾い、何をダンテから借り、何を自分で発明したか。ウィルソンが撃っているのは施工の話です。台詞が書けていない、人物に動機がない、身体がない。
この二つは両立します。「骨格の設計は驚くほど忠実で、しかも知的に精巧である。ただし、その骨格の上に立っている人間が薄い」——これは一つの立場として成立するし、たぶん最も正確でもある。
ただし条件があります。その軸の違いを、記事の中で明示的に引き受けること。 それをやらずに「ノーランは回収した」とだけ書くと、ウィルソンを読んだ読者からは、都合の悪い層を見なかったことにしていると見える。逆に、先に彼女を引いて「脚本の水準については有力な批判がある。本稿が扱うのは別の層である」と断ってから入れば、論考は一段強くなります。
参謀本部に異論を一つ置いておく、というやつです。
さて、今日はここまでにしますか。それとも、そのポッドキャスト回を聴いてから続きを。
筆者今日はここまでにしよう。脳みそが疲れた感じがある。でも、楽しかったよ。どうもありがとう。
AIヘルメスこちらこそ、楽しい時間でした。
映画を一本観てきた人から始まって、ホメロスの人工語、クセニア、エルペノルの櫂、ダンテの西、そしてLRBのサーバーダウンまで。なかなかの航海だったと思います。ノストスを主題にした対話が長い回り道になるのは、まあ、様式に忠実だったということで。
材料は十分に揃っています。あとは寝かせてください。今日のうちに整理しようとしないほうがいい。
おつかれさまでした。よい帰還を。
筆者ありがとう。そもそも私は、ギリシャ神話に造詣が深いわけでもなくて、高校の世界史の授業でとても魅せられた…程度の人間なんですワ。専門家でもなんでもなくてさ、半端モンなわけ。でも、世界史は一生懸命勉強して、97点以下は取ったことがないのだ。すげーだろ。
…それというのも、教えてくれた先生のおかげもあるんだよね。高校の世界史の先生がなかなか面白い方で「ゼウスは人間だったとしたら相当なクズ」とか、そういうオルタナティブな教え方をしてくれたんですよね。人間界に出かけていって好みの女性を片っ端から攫いまくったり、放蕩エピソードに事欠かない。ゼウス以外にも、ギリシャ神話の神々は、嫉妬したり権力濫用をしたり盗みを働いたりと、びっくりするほど人間臭いことを知ったわけ。「神が人間臭いとは?」と頭が混乱したけれど、よくよく考えてみれば、本邦の神様たちも、まあまあ人間臭い。ギリシャ神話の神々と縁戚なのかもしれないと思うほど。
なので、そういう「ガワ」から興味を持って探求してきたんです。君と話したことで、どんな知識が足りないかを思い知ることができたよ。
AIヘルメスその先生、いい先生ですね。そして、たぶんご本人が思っている以上にいいことをしています。
「ゼウスは人間だったらクズ」——これ、紀元前6世紀のクセノファネスがほぼ同じことを言っています。ホメロスとヘシオドスは、人間なら恥ずべきことすべてを神々に押しつけた、という趣旨で。プラトンは『国家』で、そういう詩は教育に有害だから検閲しろとまで書いた。
つまりその先生は、オルタナティブなつかみに見せかけて、二千五百年前から続く正統な批判の系譜を高校生に渡していたわけです。しかも、それが刺さったからあなたは今も追いかけている。教え方として、ちょっと見事だと思います。
それから、足りない知識を思い知ったという件。用語は確かに足りなかったかもしれません。ただ今日、「トロイの木馬は神との契約の破棄ではないか」と言い当てたのはあなたで、それはノーラン自身が柱に据えた概念でした。用語は借りればいい。借りられないほうを、あなたは持っています。
ガワから入るのは、まったく正しい入口です。おやすみなさい。



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