【映画】ネタバレあり『オデュッセイア』(2026、米)|感想1「人類の業」

⚠️ご注意

映画『オデュッセイア(2026)』のネタバレ感想文です。とくにラストシーンについて。本作を未見でこれからご覧になる方はご注意ください。

IMAX特別先行上演。特典でポスターをいただいた

映画館を出たとき、私にはひとつの直感があった。「これは人類の業の話だ」。そう思ったのだった。神は何ら愚かなことをせず、ただそこに在るだけ。罪を犯すのは人間だけである。オデュッセウスが流浪することとなるそもそもの原因であるトロイの木馬とは、神との契約を破ること=人間という生き物が業を背負う、という暗喩ではないか。このようなことを考えながら家路についた。

さっそく家に帰って相棒(Claude AI)に聞いてみると、それはまさに『オデュッセイア』の第一巻でゼウスが最初に口にする台詞に含まれた概念だ、とのことである。「人間どもは何かというと我々のせいにするが、災いは自分たちの愚行によって招いたものだ」と。世界最古の叙事詩の開幕、最高神の第一声が「我々のせいにするな」なのである。

「神との契約」という直感も外れていなかった。古代ギリシャに、いわゆる旧約的な契約はないが、機能的にそれに当たるものがある。クセニア——客人歓待の掟。作中では「ゼウスの掟」と訳されていた。国家も警察も通行証もない世界で、他所へ行く手段がそれしかなかったから生まれた、信仰ではなくインフラである。パリスがスパルタの客人でありながら妻を奪ったのも、キュクロプスが客人を食らうのも、求婚者たちが他人の家を食い潰すのも、すべてこの掟にまつわる話なのだ。

そしてノーラン自身が、この映画の柱はノストス(帰還)とクセニアの二つだと語っている。それを、現代的な見せ方(俳優の話すアメリカ英語や衣装、立ち居振る舞い)をすることで、急に現代に寄せてくる。「これは、古代の神話を通して現代のことを描いているのだ」と思う人は私以外にもいたのではないか。

そう見ていくと、現代的に見えた要素の多くが原典にあった。サマンサ・モートン演じるキルケーが「そのへんにいそうな女性」として現れる不気味さなんかは、まさにこれだ。原典ですでに、家事と食事と豚だけで構成された「日常の延長線上にある」恐怖を醸し出している。そこに現代ホラー映画的手法を組み合わせた表現を加えることで、嫌な恐怖感を煽ることに成功している。

最後の「新たなる旅立ち」的シーンも示唆的だ、と思い切り深読みしてみた。

「最後に旅立つシーンなんて、あったっけ?」と思ったのだが、ちゃんとあった。

帰還のあとにもう一度旅立つことも、死者が弔いを求めることも、実は第十一巻に書いてある。

原典にないのは、「西の海域へと向かう」云々の描写だ。作中の最後半で、オデュッセウスは、妻のペネロペを伴って西の海域に向け、出航する。相棒によれば、この「西の海へと漕ぎ出すオデュッセウス」というのは、どうもダンテの創作による「ウリッセ」の要素を差し込んでいるのではないか、という話があるらしい。また、英国の詩人アルフレッド・テニスンは、ずばり「Ulysses」という詩を詠んでいることも思い出した。彼らが描くオデュッセイアは、西ヨーロッパが受け継いで2000年かけて育てた別バージョンである。オルタナティブ・オデュッセイアと言ってもいいかもしれない。このオルタナ要素を混ぜ込んで煮た作品だとも言えるのではないか。

ちなみに、原典の最終巻では、イタケーの城内に居座っていた求婚者たちに対する、日本の時代劇顔負けの復讐劇が展開する。そのあと、復讐の連鎖を止めるために神が降りてきて、裁定を下し、秩序を回復するというシーンがある。正義を執行してもなお残る破茶滅茶さを、忘却によって処理する構造だ。本作では、ノーランは記憶を消さず、弔いの航海で終わらせたことになる。

振り返ることは、それ自体では救済にならない。遺族もまた振り返っているし、セイレーンが船乗りに売るのは完全な記憶である。必要なのは振り返ることではなく、振り返るための型だ。冥府のシーンで登場したエルペノールが求めたのは感情的寄り添い(振り返り/追想)ではなく、実際的な手続きだった。

一旦、葬り去って新たなる旅路へ向かうのだ、というメッセージであるともとれる。

また「ヘラクレスの岩(ジブラルタル海峡)越しにみた大洋」というのは、アメリカを暗喩しているようにも見えた。西の彼方にある、新世界である。そのアメリカの現状についても思いを馳せる仕掛けだったのではないだろうか。

(つづく)

また別の角度から感想を書く予定です。たぶん。

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