ふつうの大事さ。

「普通」という言葉を聞くと、どこか退屈で、ありふれたものを想像してしまう。しかし、日常のなかにある「普通」がどれほど大切なものか、意識したことがあるだろうか。私は、ほとんどなかった。

たとえば、朝起きて、歯を磨き、コーヒーを飲み、仕事に行く。このルーティーンが何事もなく続くことは、決して当たり前ではない。戦争や災害が起こると、私たちの「普通」は一瞬にして崩れる。ふつうに暮らせるということは、それ自体が奇跡のようなものなのだ。

現代社会は、感情をうまくマッサージしてくれる仕掛けに溢れている。それを浴び続け、溺れていると、普通であることが、はたして一体何なのか、次第に気づくことができなくなる。

また、「普通であること」が「観測できること」も重要だ。たとえば、街を歩いていて「あれ? なんだかいつもと違うな」と感じることがある。これは普段の景色や雰囲気を無意識に記憶しているからこそ、変化に気づけるのかもしれない。普通の状態を知っているからこそ、異常を察知できる。この能力は、日々の安全やリスク管理にも大いに役立つ。

「普通であること」は平凡でつまらないものではなく、むしろとてつもなく貴重なものだ。だからこそ、日々の「普通」に感謝し、その価値を再認識することが大切なのではないか。

ボケっとしていたら、気がつくことができないのかもしれない。

普通を甘くみてはいけない。

「普通」をアシストしてくれる、普通の道具

私にとって、普通を観測できる力は、何気なく過ごすなかで自然に培われるものではない。意識することと鍛錬が大切であると感じる。そのために何をしているか?と考えた時、「道具選び」が思い浮かんだ。

たとえば、私の相棒であるカメラ。思えば、ずっと「ベーシック」な機種を使ってきた。ずっとCanonのEOS 5Dシリーズを使ってきており、今も持ち出すことが多々ある。

とくにEOS5DMk2とは、いろいろな場所で、多くの時間をともに過ごした。発売当時、飛ぶように売れた大人気機種だ。「一眼レフ」の代名詞といってもいいだろう。しかも、いまや当たり前になったカメラで動画を撮るということを「普通のこと」にしたのは、この機種だった。でも、それだけのことをやってのけたのに、不思議と尖った感じがしないのが好きだ。あくまでも「普通のカメラ」という顔をしている。

現在はソニーのαシリーズ、とくにα7シリーズを愛用している。もちろん、性能的にもっと良い機種はたくさんある。フラッグシップ機のα1や、価格帯もα7シリーズと近いα9、α7Sやα7Rシリーズなどもある。

しかし、やはり「ベーシック」に惹かれる。たとえば、売れに売れたα7Ⅲも、続くⅣも名機だと思う。しかしコイツらも、「自分、普通のカメラっす」という顔でこちらを見つめている気がする。

やろうと思えばもっと機能を盛れるのだろうが、持つべきものはすべて備えている。

そんなポジショニングに、静かな自信を感じとるのだ。

ベーシック機は、静かなる謙虚な革命家という感じがする。

新旧の私の相棒たちに共通すること。それは、「既成概念を静かに壊し、気が付かぬ間に普通をつくりだし、普通を規定する」ということなんじゃないかと思っている。

この「静かに」ということに強く惹かれる。

もちろん、センセーショナルなゲームチェンジャーにもワクワクはする。

静かに、謙虚に普通を遂行する。

極めて難しい芸当なのではないか。

尖ったり、気を衒うことは意外と簡単だったりする。騒々しく、勢いで乗り切ることは簡単だし、相手を短期的には圧倒させることができる。しかし、燃え尽きるのもまた早い。

変に尖ったり、オラついたり、のぼせてしまいそうな時には、手元にある道具をみるのだ。普通を体現している相棒を。

普通をみつけ、自分の中で策定し、観測し続けること。

30代の最後の最後に、このことの価値に気がつき、勝手にひとりで盛り上がっている。

思えば、その試基礎づくりをしてきたのが、20代と30代だった。

20代は無邪気さと苦しみを同居させながら。

30代は楽しみながら。

40代は、惑わずに自信を持ち、普通であることの観測を続ける。

そして、世の中に還元させていきたい。静かに、できるだけ謙虚に。暴力性やハラスメント性を帯びさせることなく。

こんな時代だから、まずは心身の健康を整えて、「自分の普通」を観測し続けていきたいものだな、と思う。

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