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昨晩はNHKドラマ「坂の上の雲」を観た。
第22回「(22)二○三高地(後編)」。
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おそらく、このドラマシリーズのハイライトの一つであろうと思われる。
ちなみに私は、このドラマ自体をリアルタイムで観ていない。ほぼ初見である。
友人知人などからは「観ていないのかよ」と驚かれることが多い。それほど、私の年代においても観ている人の多いドラマなのだと思う。
当時の私は社会人1年目だった。且つ、2009年というのはリーマンショック騒ぎの真っ只中であり、私の属する建設業界の惨状は、それはもうひどいものだった。ドラマ鑑賞どころではなかったし、精神状態も著しく悪かったために、こういった重厚かつ骨太なドラマを観ることができなかったのだった。
いっぽう、原作自体はは全巻読了していた。読んだのは18歳の終わり頃、大学進学を決めた直後の春先であったと記憶している。時間があったので一気に読んだのだ。なにしろ、実家の本棚に全部あったので、「まとまった時間のある時に一気読みしよう」と思っていた。
読んでずっと頭に残っていたこと。
それは、「司馬の乃木評」である。「乃木観」といったほうがよいかもしれない。
なにしろ全8巻もの超大作大河小説である。ゆえに、印象的な部分はたくさんあるが、全巻まとめて読んだ上でもっとも気になったのは、この1点に尽きる。初読から20年以上経過しているが、この点は変わらない。
なお、テーマがテーマなので、一旦この記事を書き始めたはいいが、とてもではないがひとつの記事では書ききれないことに途中で気がついてしまった。
当記事は、濃縮還元ジュースみたいなものだと思ってもらえれば幸いである。
乃木希典は愚将か、有能な将軍か?
乃木希典(のぎ・まれすけ)という人物の評価は、今なお意見が分かれると思う。日露戦争における旅順攻略戦を指揮し、203高地の攻防戦では多大な犠牲を出したことで「愚将」とする声もあれば、戦後の教育者としての姿勢や軍人としての忠義から「名将」とする声もある。
正直なところ、私自身も評価を決めかねている。というよりはむしろ、「今後も決して結論は出ない(出せない)のだろうな」ということを、なんとなく直観している。
原作とドラマの違いに思いを巡らせた回だった
記事冒頭に書いた通り、最近、NHKで『坂の上の雲』の再放送があり、ちょうど203高地の回を観た。原作において、司馬遼太郎は乃木を極めて否定的に描いている印象があったが、NHKドラマではむしろ「苦悩する軍人」としての側面も強調されていたように感じられた。
そうした事情がありつつも、「原作と映像作品の、乃木の描き方の違いは何なのか?」「細かいのだが、決定的に違う描き方をしている?」ということについて、思いを巡らせていたのだった。
原作が発表されたのは1960年代であり、ドラマが放送されたのは2009年である。当然ながら、その間、戦史研究は大いに発展した。ソビエト連邦崩壊によって、ロシア側の視点など多くの新資料が発見された。これによって一種の「ズレ」が生まれるのだと思うし、映像作品の制作が始まったのは司馬が亡くなってからのことである。そもそも作者当人が映像化に難色を示していたと言われる。もっとも、制作が紆余曲折を辿ったことも関わっている可能性もある。脚本家の方が急逝し、交代した等の事情も関係しているのかもしれない。
今回、乃木希典の評価を「ミクロ(局地的な視点)」と「マクロ(全体的な視点)」の両面から考えてみる。
日露戦争と旅順攻撃の背景
日露戦争の勃発と旅順攻撃にいたる道程
1904年2月、日露戦争が勃発する。主な要因は、日本(大日本帝国)と南下政策をとるロシア(帝政ロシア)が朝鮮半島および満洲の支配をめぐって対立したことにある。日本は開戦当初、海軍の奇襲攻撃によって旅順港のロシア太平洋艦隊に打撃を与えたが、ロシア軍は強固な防御陣を築いており、日本軍は、陸軍の主導によって旅順要塞を陥落させなければ、黄海から東シナ海、日本海にまで至る広大な海域の制海権を完全に確保できなかった。
さらに、ロシアはバルト海の艦艇を集め「第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)」を組織し、極東に向けこれを出撃させたとの報が寄せられる。
旅順要塞を確保できないうちにバルチック艦隊が合流すれば、完全に制海権を失う。そうなれば、日本の内地と朝鮮半島・中国大陸との接続は絶たれ、陸軍は大陸で孤立する。その時点で日本の敗北は決まる。
こうした切迫した状況のなか、旅順要塞攻撃は進められたのだった。
旅順要塞と203高地の重要性
旅順要塞はロシア軍にとって極めて重要な拠点であり、ここを押さえれば旅順港に停泊しているロシア艦隊を砲撃で壊滅させることができた。特に203高地は旅順の制圧に不可欠であり、この丘陵を制圧することで日本軍は観測点を置くことができ、旅順港を見下ろし、艦隊に直接砲撃を加えることが可能になると目された。
このため、日本軍の戦略目標は旅順要塞の攻略=203高地の奪取となり、乃木希典率いる第3軍がこの任務を担った。旅順要塞は当時の最新技術を駆使した防御施設であり、厚いコンクリートで強化された堡塁や堅牢な地下壕、複雑な塹壕網が構築されていた。これにより、攻撃側にとっては極めて攻略が困難な要塞となっていた。
その攻撃は困難を極め、多くの犠牲を伴うこととなる。
(1)ミクロな視点:203高地における乃木の評価
旅順攻略戦の中でも特に有名なのが、203高地の攻防戦である。日露戦争中、日本軍はこの要塞を陥落させるために数ヶ月にわたり攻撃を続けたが、その戦術はあまりに非効率だった。…原作同様、この認識を元に、ドラマでは描かれていると感じた。
- 正面突撃の繰り返し:近代戦のセオリーである砲撃戦や包囲戦を十分に活用せず、兵士を突撃させることで大量の死傷者を出した。
- 児玉源太郎の介入:進展しない攻略戦に痺れを切らした参謀総長の児玉は、第3軍司令部まで乗り込む。児玉が戦術を修正し、ようやく203高地を攻略できた。
- 人的被害の大きさ:旅順攻略戦での日本側の死傷者は約6万人とされ、これは日露戦争全体の人的損害の大きな部分を占める。
この戦術の拙さから、「乃木は愚将だった」という評価が生まれた。
以上はドラマの描き方であるし、いま現在もこのような評価をする方も多いと感じている。
いっぽう、私は下記の点において、ミクロ的観点からも決して乃木は愚将ではなかったと考えている。
- 弾薬不足を考慮した戦術を採用した:日本陸軍は慢性的弾薬不足のなか戦闘を継続せざるを得なかった。明治維新以降、工業化に邁進するも、いまだその途上であり生産体制は整っていなかった。
- 塹壕戦の「発明」:旅順要塞は当初の想定よりも遥かに頑強で、日本軍は短期決戦のつもりだったが、攻撃が難航。鉄条網と機関銃による防衛線の突破は困難を極めた。第一次世界大戦で欧州各国軍も同様の戦術を採用したことはよく知られている。乃木がとった戦術は理にかなっていたともいえる。
(2)マクロな視点:乃木希典は本当に愚将だったのか?
ただ、203高地の戦いだけで乃木を評価するのは短絡的であると思う。では、日露戦争全体で見たとき、乃木の役割はどうだったのか?
① 旅順陥落という戦略的成果
- 旅順要塞が落ちたことで、ロシアの旅順艦隊は無力化し、日本の制海権が確保された。
- 日露戦争の講和交渉(ポーツマス条約)において、日本に有利な条件を引き出す要因となった。
- 乃木の戦術には問題があったが、結果として戦略的には成功を収めた。
② 奉天会戦での役割
- 旅順戦の後、乃木は奉天会戦に参加し、今度は慎重な指揮を執る。
- 奉天会戦では無謀な突撃を控え、持ち場をしっかり守る戦術を採った。
- 旅順戦の失敗を活かしたとも言える。
③ 軍人としての忠誠心と人格
- 乃木は誠実な軍人として知られ、天皇や国への忠義を貫いた。
- 戦後は学習院院長として教育に尽力し、多くの若者を育てた。
- 乃木は二人の息子を戦争で亡くし、その責任を強く感じていた。
- 明治天皇崩御の際に「殉死」したが、これは彼の武士道精神の表れだった。
こうして見ると、乃木は確かに戦術的には凡庸な指揮官だったかもしれないが、「戦争全体のなかで重要な役割を果たした」ことは間違いないと考えてよいと思う。
(3) 「視点の切り取り方」で歴史評価は変わる
乃木に限らず、歴史上の人物の評価は「どの視点から見るか」によって大きく変わる。幕末明治以降の人物を3名選んだ。資料の数が大幅に増えるので判断材料が多いからだ。江戸時代前期以前は、私の入手できる客観的判断材料が著しく乏しいので、ここでは書かない。せっかくなので、私の郷里が生んだ歴史的人物の中で、しかも特に毀誉褒貶の激しい人物を2名、入れてみた。
例:
人物 | ミクロ(局地的な評価) | マクロ(全体の評価) |
---|---|---|
徳川慶喜 | 大政奉還を決断したが、薩長に屈し恭順し、幕府を終わらせた「臆病者」「暗君」 | 無駄な戦争を避け、日本の近代化のために血を流さず幕府を終わらせた「賢明な政治家」 |
山本五十六 | 真珠湾攻撃を企画し、日本を無謀な戦争へと導いた「戦犯」 | 日本海軍の近代化と航空戦力の強化に貢献した「優れた軍政家」であった |
乃木希典 | 203高地で無謀な突撃を繰り返した「愚将」 | 旅順戦を戦略的に成功させ、戦後は教育者として貢献した「軍人」 |
河井継之助 | 戊辰戦争で結果的に長岡藩を孤立させた「独断者」 | 武装中立を模索し、近代戦を予見した「先見の明を持つ武士」 |
切り取り方によっても、いかようにもその人物の評価は変わる。しかも、時代の変遷によって両極端に振れるケースもしばしばだ。「誰それが再評価されている!」などのテレビ番組が作られたり、書籍が並んだりするのもそのためだ。「ラストサムライ・河井継之助」など。
このように、歴史人物を評価する際は「部分的な局面」だけでなく、「なるべく俯瞰的に全体を見て評価する」ことが鉄則である。
(4)結論:「203高地と司馬遼太郎だけで乃木を評価するべきではない」
乃木希典は「愚将」か「有能な将軍」かという問いに対して、現在の私が導き出せる最も明確な答えは次のようなものだ。
- 戦術的には凡庸だったが、戦略的には一定の成果を上げた。
- 彼の武士道精神は、後の日本軍の思想に悪用された側面もあるが、乃木自身は誠実な軍人だった。
- 部分ではなく、全体を見て評価することが重要である。
- 物事は多面的である。「これぞ○○」などと簡単に評価できない。
- 観測する人物の視点と「歴史観」によっても大きく異なる
- 極端な肯定・批判に走らない
前段にも書いた通り原作者の司馬は乃木を「時代遅れの愚将」と見たが、それは戦後の視点からの評価にすぎない。歴史をなるべく公正に見ようとするならば、「乃木は時代に翻弄された軍人」であり、「戦争全体のなかで一定の役割を果たした指揮官」だったと結論づけるのが最も適切だろうと私は思う。
これも冒頭に書いた通り、何度考えてみても、評価をすること自体が難しいと思う。
荒唐無稽な妄想話だが、たとえタイムリープして203高地の激戦を間近で見届けたとしても、帰国後に乃木にインタビューしたとしても、評価を下すことは難しいと思う。
司馬史観と歴史モノ
司馬自身、戦時中は帝国陸軍戦車兵として従軍したわけなのだから、その体験が作品に投影されないほうがおかしいともいえる。作者の「歴史観」が色濃く反映される。それこそ「司馬史観」と言う言葉もあるくらいだ。司馬自身の人生を投影した「小説」なのだということは認識した上で読むべきだと思う。
加えて、これは必ず書き添えておきたい。司馬作品には好きな作品も多くある。学びのきっかけを得ることも多いし、有益な読書体験だったな、と思うことが多いし、いま読み返しても新たな視点が立ち上がることも多い。そして、読み物として、圧倒的に面白いのだ。
ただし、「歴史として見ること・読むこと」に関しては、読み手が自ら学び、意識的に注意して読むことが必要だと思う。
ちなみに小説家が「丁寧に歴史を調べ尽くして書いた小説」ということでいうなら、吉村昭の一連の作品を読むのがよいと思う。日露戦争で言えば「海の史劇」で、個人的におすすめ。ただ、とくに現代では万人受けはしないと思う。
「歴史」モノは、語る主体各々の人生によって必ずバイアスがかかる。読み手自身によってもまた、バイアスがかかる。
私自身、どうだろうか。
祖父が海軍の軍人であったし、少ないながらも戦争体験を聞いている。そうしたことから絶対に逃れることはできない。いわゆる海軍善玉論に走ってしまわないか等々を自ら点検している。逆に反動で昔の人々を貶めるようなことを書いていないか?ということも然り。
「絶対的な中立視点」「究極の客観視」など、絶対にできない。
生成AIはそれが可能になるかもしれないが、それはそれで恐るべき社会が到来する気もする。
最後に
最後に、身も蓋も無いことを言うが、「戦争などなければどうだっただろう」ということを思う。
乃木さんは学者・教育者として記憶されることになっていたのではないか。
もっと言えば、「戦争などなければよかったのだ」と思う。戦争映画や戦争ドラマ、漫画、アニメを観ると、最後に必ずそう思う。「戦争さえなければ、この人はこんなに狂わされなかったのかもしれない」としか思わない。
もちろん、歴史にIFなどあり得ない。戦争がなければ司馬遼太郎もああした作品を残すことはなかったのだから、考えたところでまったく意味がないのだが。
いずれにしても、「諦観」という言葉について深く考える回であったと思う。そういうきっかけをくれるのが司馬作品だと思っている。
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