いきなり逃げ口上を述べるようですが、あまり快くない文章を書きます。
昨日の某会見を通じて、言葉を扱うことの責任や、フリーランスとしての在り方について考えたことを記します。
弊サイトにはモットーなどは特にないのですが、「他者(他社)の悪口は書かない」「弱いものいじめはしない」ということを念頭に置いております。
…なのですが、昨日の某会見が、あまりにも衝撃的だったので、筆を滑らせてしまいました。
推敲を殆どしていませんので後で修正するかもしれません。悪しからずご容赦を。
フリーランスは爪痕を残さなければいけない(?)
会見云々の詳細説明は端折りますが、特定の記者が感情的に質問を投げかけていた姿が目立ち、冷静さを欠いているように思えたことに衝撃を受けました。
何を隠そう、わたしも「フリーライター」となるわけで、広義の上では彼ら彼女らと同じフィールドにいる人間です。ただ、ああいう会見に駆けつけたことは一度もありませんし、今後もやりませんが。
ライターといっても、実にさまざまな人間がいて、各々の得意分野や専門領域によって分化されます。「グルメライター」とか「政治ライター」など。新聞や雑誌、書籍を主戦場にするひともいれば、私みたいにWEB上を主な活動の場にするひともいます。共通して言えるのは「ことばを扱う仕事である」ということ。
さて、この「フリーランス」と呼ばれる人間には、共通している生態のようなものがあると常々感じております。
「爪痕を残さなければいけない」ということです。
フリーランスは、「自分が関与した爪痕を残さなければ」「自分を刻み込まねば」という思いが無意識的に発動します。それが必然的に、エッジの効いた意見や、尖った意見を表明することにもつながります。そりゃ、そうです。毒にも薬にもならない意見など誰も気にもとめないし、読まれない「とされている」からです。
これが歪んだジャーナリズムや、いわゆるアテンション・エコノミーと融合してしまい、厄介なことになっていると感じます。
ジャーナリズムとは
聞くところによると、会見当日には400数名が集結したとの由。すごい人数です。
なかには「ジャーナリスト」と名乗る方も大勢参加していました。
残念なことに、一部のジャーナリストにおいて、自分の承認欲求に引きずられたかのような振る舞いが見受けられたように感じました。
「ジャーナリズムとはなんぞや?」ということを書くと最低2万字くらい必要になりますが、一般的な認識を持ち出しますと、「ジャーナリズムとは真実を追求すること」なのではないでしょうか(もちろん「権力の監視者」など様々な概念があると思いますが)。
真実を追求すること。そのために「物事の本質的なことに可能な限り肉薄して表現する」のがジャーナリズムなのではないか?と私は思います。他の人が気づかぬ鋭い視点、緻密な取材…。そうしたことを経て作り出される記事や制作物こそ、人の心を打つのだし、お金を払ってでも読みたいと、少なくとも私はそう思います。
ことばを扱うのは恐ろしいこと
400名以上もの参加者があったとなると、関係の深浅にかかわらず、存じ上げている方も何人かいらっしゃる。会見後もSNSなどで、罵倒する文言を用いて、すごい内容を書いている方も何人かいらっしゃいました。いわゆるプロの物書きの方たちが、です。
ジャーナリストも含め、かなりの数の「知っているひと」が参加していてびっくりしています。しかも、みな一様に感情優先で吹き上がっているようにも見えます。もはや「熱狂」と言っていいかもしれない。
しかも、会見自体も10時間以上もの時間をかけて行われたと聞きました。
ちょっと異常な気がします。
媒体の規模や収入の多寡を問わず、いわゆるプロの物書きを標榜するのであれば、今一度「ペンは剣よりも強し」ということを考えてみるべきではないかと思うのです。記者、ライター、ジャーナリスト、通信社社員でも誰であろうとも。
そこまで高尚なことではないにしても、「これを言うとどうなるか」「これを書くとどのような影響が考えられるか」といったことを想像しないと、ことばが武器のようになってしまう。
ひたすら人を傷つけたり、貶めたり、騙したりするだけのことばを発したり、文章を書くくらいなら、むしろ黙っている方がいいし、最悪、筆を折った方が世のためであるとすら思います。
「ことばを扱う」という営為は、とても恐ろしいものだと思うのです。
プロフェッショナルとしての技術や経験値はもちろん必要だけれど、もっと大切なことがあるはずではないでしょうか。
熱狂と幼稚さが融合した先には、いったいどんな世界が待っているのか。20世紀で嫌と言うほど体験したはずではなかったのか?とすら思います。これは、本邦に限った話ではなく、世界的な傾向だと思いつつも。
経験=洗練の恐ろしさ
経験というのは非常に怖いものだな、とも思いました。
日々の仕事が経験として蓄積されていき、ルーティーンワークとなり、次第に洗練されていく。
どのような業界でも、プロフェッショナルというのはそういうものなのではなかろうかと思います。
ライター業であれば、経験豊富なひとは、ほとんど自動的に文章を綴ることだってできてしまう。
最近、巷では「ライター業は真っ先に生成AIに仕事を奪われる」と言う言説を目にします。
たしかに仕事が無くなるライターもいますが、そうならない人も沢山います。
なぜなら、生成AIを使わない方が速いくらいに洗練されているから。
プロフェッショナルの洗練というのは、とてもすごいことです。
この洗練というものは、美しい形をとるばかりではなく、ときに歪んでしまうものだと思います。
歪んだ形の洗練は、人を自動機械のようにしてしまうのかもしれません。
いわば、悪意の自動機械。
会見には「申し訳ないけれど、この方は本当に取材をしたことがあるのだろうか?」と思う人や「会社に命令されて嫌々参加したのだろうな」という印象の会社員ライターに混じり、洗練された悪意を感じる「プロ」もいて、ゾッとしてしまいました。
洗練は、本来人を高めるものですが、誤った方向に進むと、時に悪意や機械的な冷たさを伴うものになることを痛感しました。
洗練を態度へと昇華していくこと
と同時に、「人の振り見て我が袖直せ」という話でしかないな、と思いました。
技術云々の前に、人としての在り方だったり、「態度(アティチュード)」が大事なのだと再点検できました。
こういう風に(結果的には悪口になることを)書いていると、心の片隅に歪んだ「快」の感情が湧き上がっているのを感じとりました。嗚呼、自分もまた、同じ穴の狢なのだ、と。
誤解を恐れずに大袈裟なことを言えば「ことばや文字というのには、自分の生き様が刻まれていくものだ」と思います。
その生き様という、目に見えないフワッとした概念を形作っていくのは、仕事に対する日々の態度なのではないか。
このことを重々、認識せねばならないと強く思う出来事でした。
とかく、怒りの感情というのは恐ろしいものです。
あまりこう言うことを言うべきではないのかもしれないけれど、日々誰かを貶めるようなことを続けているひとの顔は、どこか歪んで見えてしまう気がします。
アメリカの某スペースオペラ超大作映画ではないけれど、「怒りの感情に絡め取られると、いとも容易く暗黒面に落ちてしまう」のではなかろうかと思います。
今年も年初早々、立て続けにいろいろなことが怒っていますが、とにかく世の中が良い方向に向かってくれ、と思うばかりです。
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