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松下家康。 安吾と松下洸平が描いた”人間家康”

画像:徳川家康三方ヶ原戦役画像(徳川美術館蔵)/パブリックドメイン

まず、タイトルは誤字/誤植ではないので安心めされよ。

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!1』で松下洸平さん演じる徳川家康(松平家康/元康)が、とても好きなのだ。すっかりハマっている。毎回、「今回は登場しないものか」と楽しみにしている。

なぜ好きかというと、私が思う家康像と見事なまでに合致しているのだ。 「家康は実際、こうだったのではないか」というのを、ストレートに見せてくれている感じがする。脚本(八津弘幸さん)の筆なのか、松下さんの芝居なのか。おそらく、その両方なのだろう。

本作の家康は、こうである。

  • 良くも悪くも飄々としている
  • 言葉が軽い。びっくりするほど軽い
  • それを周囲に容易に悟られる
  • あたふたする。隠し事に徹することができない
  • ふてくされる
  • ヘタレっぷりがリアルすぎて、失笑してしまうほど
  • しかし、育ちの良さと悪に振り切れない性格が度々顔をだす

どうだろう。古狸とはほど遠い。

でも私は、これこそが「人間家康」だったのではないかと思っているのだ。

「狸」はいつ生まれたのか

家康には、常にステレオタイプなイメージが付きまとってきた。

「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座りしままに食うは徳川」。

これはあまりにも有名すぎる落首2である。江戸後期の嘉永2(1849)年には、これを絵にした歌川芳虎の浮世絵『道外武者御代の若餅3』が出回り、お咎めを受けたという。

ただ、ここで笑われているのは「楽をして美味しいところを持っていった家康」だ。ずるいやつではあっても、腹に奸計を隠した策士ではない。

「家康は腹黒い古狸」。 このイメージが大衆の間に広く行き渡ったのは、意外なことに明治以降のことらしい(諸説あるが)。

だって、そりゃあそうでしょう。 明治政府を担ったのは薩長である。毛利(長州)からすれば、関ヶ原以来の因縁の家だ。島津(薩摩)にしてみてもそう。ほかにも恨みを抱えた家はたくさんあっただろう。 それに、時代の変革期はスケープゴートを必要とする。参勤交代4や天下普請5でガッツリと資産を削られてきた全国の大名家(とくに外様大名6)にしてみれば、ようやく大っぴらに恨み言を言える時代がきたわけだ。

明治の末から大正にかけては、講談や立川文庫7の「真田もの」が大流行する。主役は真田幸村と十勇士8、敵役はもちろん家康である。こうして「狸親父」は、子どもたちの間にまで浸透していった。

かくいう私も、ずっと家康は狸だと思ってきた。 こうしたイメージの形成に一役買っていたのが、司馬遼太郎だった。『関ヶ原』や『城塞』9の家康は、まさに老獪そのもの。読み終えると、どうにも好きになれない人物として家康が残った。 断っておくが、私は作家としての司馬がとても好きである。

一方で、正反対の家康像もある。戦後、山岡荘八が書いた大長編『徳川家康10』だ。こちらの家康は、ほとんど聖人。忍耐と平和の人として描かれ、高度成長期には経営者のバイブルにまでなった。

つまり家康像は、狸と聖人のあいだを、振り子のように行ったり来たりしてきたのである。

安吾が描いた「初犯者」家康

その振り子とはまったく別の場所から、私の中の家康像を更新してくれたのが、坂口安吾11だった。

そう、あの坂口安吾。新潟出身の文豪、安吾である。 安吾には、その名もずばり『家康』という小説がある。私はこれがとても好きで、おおいに参考にさせてもらっている。実際、安吾の歴史モノの中でも人気が高いらしい。安吾はここで自身の家康像を展開するわけだが、これがいちいち本質をついているように思えてならない。

家康が、同じく関東に本拠を置いた大先輩・頼朝を研究していたことはよく知られている(『吾妻鏡12』を愛読していた)。そのうえで、安吾はこう書く。

昔はさうでなかつたのだが初犯以来は別人で、だんだん慾がでてきたのである。豊臣家乗取りの方策などでも出来れば頼朝の故智を習つて綺麗にやりたかつたであらうが、何と云つても両家対立の事情と朝廷武家対立の事情とは根本が違ふので綺麗ごとといふわけに行かない。元来が保守的な性癖で事を好まぬ家康で、狸どころか番犬のやうな気の良いところもあるのだが、ええママヨとふてくされて齧りつくと忽ち狂犬の如くになつたので、アラレもなくエゲツないやり口が寧ろ家康の初々しさを表してゐると見てもよい。 ——坂口安吾『家康』13

安吾は、家康は犯罪の常習者ではなく初犯者だった、ようするに悪巧みがうまくなかった、とした上でこう論じている。

狸どころか番犬。ふてくされて齧りついたら、たちまち狂犬。そのエゲツなさこそが、むしろ初々しさの表れ。

まさしく、松下洸平さんが演じているのはこれではあるまいか。

世阿弥は『風姿花伝14』で「秘すれば花なり」と説き、のちに『花鏡』で「初心忘るべからず」と説いた。のちに能を幕府の式楽15とする道を開いた家康その人は、前者はまるでできなかったが、後者は図らずも体現していたことになる。本音を秘することができず、老いてなお悪巧みは初々しい。なんとも趣深いではないか。

天下取りスイッチは、いつ入ったのか

ここからは私の想像(妄想)である。安吾に背中を押された妄想、とでも言おうか。

私がずっと考えているのが、「家康はいつ天下取りを思いついたのか」という点だ。 若い頃から天下を簒奪16しようと策動していたとは思っていない。合戦の戦略を見ても、領内経営を見ても、そこまでの野心はなかったと思えてならないからだ。

やる気スイッチならぬ天下取りスイッチがオンになったのは、50代も半ばに入ってからだと筆者は思っている。秀吉が死んだとき、家康は55歳。天下は、なし崩し的に転がり込んできたわけだ。

その直前の40代には、一度諦めているフシがある。 小牧・長久手の戦い17(天正12年・1584年)で秀吉と渡り合ったあたりでは「ワンチャン、ありそ?」と思ったかもしれない。だが、とにもかくにも天正14(1586)年10月、大坂城で臣下の礼18をとったことで、わずかな望みはポッキリと折られた。

しかも、そこで折られたのは天下取りの野望ですらなく、大大名化、地域の巨大勢力への野望だったのではなかろうか。せいぜい旧武田領と真田の沼田19、あわよくば同盟相手の北条からも少々かすめ取れれば上等上等。その程度だったのではないか。

それをぶっ潰したのが、豊臣兄弟である。 上洛した家康は秀長の屋敷20に宿をとり、その夜、秀吉がひそかに訪ねてきて「明日はよろしく頼む」と根回ししたという逸話が伝わっている。兄が頼み込み、弟が場を整える。家康はここで、豊臣兄弟の連携プレーにまんまと絡め取られたのである。…というわけである。

「振り子」としての大河・家康

私は、大河ドラマというのは、「われわれ大衆の歴史的イメージがどう更新されていくか」を測るバロメーターだと思っている。もちろん、プロの歴史家の皆様の中には厳しい目線を投げかけている方も多いだろう。かくいう私も本作には「おいおい」となる場面が少なくない。が、ドラマなのだ。ドラマ。楽しければよいのだ。「歴史考証ドラマ」と銘打っていれば蜂の巣にされるのは仕方がないと思うが…。

さて、大河ドラマの歴史を振り返ってみると、大河の家康もまた振り子だった。 1983年の『徳川家康』(滝田栄)は山岡荘八が原作で、聖人寄り。2000年の『葵 徳川三代』の津川雅彦は、これぞ古狸という貫禄だった。

その振り子をいったん止めたのが、松本潤さん主演の『どうする家康』(2023年)ではなかったろうか。泣いて、迷って、うろたえる家康。脚本全体としてはこちらもツッコミどころが多かったが、狸でも聖人でもない家康を正面から描いた意義は大きいと思う。

そして松下家康である。 松潤家康が「悩める主人公」だったとすれば、松下家康は「脇(家臣、豊臣兄弟サイド)から見た家康」だ。主人公の目線ではないぶん、言葉の軽さも、ヘタレっぷりも、容赦なく映し出される。そこがたまらなくリアルなのだ。

スイッチが入る前の家康

秀長が亡くなるのは天正19(1591)年。このとき家康は48歳。

もしドラマが秀長の死をもって幕を閉じるなら、松下家康は、天下取りスイッチが入る前の家康のまま、私たちの前から退場することになる。

「神君」にも「東照大権現」にも、そして「古狸」にもなる前の家康。 私たちがいま毎週見ているのは、もしかすると、リアルな人間・家康なのかもしれない(?)。

脚注

  1. 『豊臣兄弟!』
    2026年放送のNHK大河ドラマ。主人公は豊臣秀吉の弟・秀長(演:仲野太賀)で、兄を支えた「補佐役」の視点から戦国時代を描く。余談だが、筆者はこの「補佐役から描くこと」がミソだと思う。補佐役目線=脇からの目線=本筋ではないオルタナティブな目線、というイメージ。 ↩︎
  2. 落首
    時事や権力者を風刺した匿名の狂歌・戯れ歌。人目につく場所に貼り出すなどして広まった。 ↩︎
  3. 歌川芳虎『道外武者御代の若餅』
    芳虎は幕末から明治にかけての浮世絵師で、歌川国芳の門人。表向きは別人の名を借りながら、信長・秀吉・家康の天下取りを餅つきになぞらえた作品とされ、幕府の処罰を受けたと伝わる。 ↩︎
  4. 参勤交代
    大名が江戸と国元を原則1年おきに往復する制度。寛永12(1635)年の武家諸法度で制度化された。妻子は江戸に常住させられ、往復の行列や江戸屋敷の維持に莫大な費用がかかった。 ↩︎
  5. 天下普請
    江戸幕府が諸大名に命じた、江戸城・名古屋城などの築城や河川工事。費用も人員も大名の負担だった。たとえば仙台藩伊達家は江戸城の堀の改修事業を任された(現在、神田川に『仙台堀』として残る)ほか、越後(現在の新潟県)の高田城の築城を命じられている。城主に任じられたのが娘婿だった松平忠輝(家康の六男)だったのだが、にしても酷な出費策である(「断れない」じゃん…) ↩︎
  6. 外様大名
    関ヶ原の戦いの前後から徳川家に従った大名。毛利・島津・前田などの大大名が多く、幕政の中枢からは遠ざけられた。 ↩︎
  7. 立川文庫(たつかわぶんこ)
    明治末から大正にかけて大阪の立川文明堂が刊行した、講談を読み物にした小型本のシリーズ。猿飛佐助や霧隠才蔵といった忍者ヒーローを生み、少年たちに爆発的な人気を博した。 ↩︎
  8. 真田幸村と十勇士
    幸村の実名は信繁。大坂夏の陣で家康の本陣に迫る奮戦を見せた。「幸村」の名や、猿飛佐助らを含む「十勇士」は、主に江戸期の軍記物や講談、立川文庫を通じて広まった後世の創作。 ↩︎
  9. 『関ヶ原』『城塞』
    いずれも司馬遼太郎の歴史小説。『関ヶ原』は関ヶ原の戦いを石田三成と家康の対決として描き、『城塞』は大坂の陣で豊臣家を滅ぼすまでの家康の謀略を描く。 ↩︎
  10. 山岡荘八『徳川家康』
    昭和25(1950)年から約17年にわたって新聞連載された大長編(全26巻)。家康を乱世に泰平をもたらした忍耐の人として描き、戦後の「家康ブーム」を巻き起こした。 ↩︎
  11. 坂口安吾
    明治39(1906)年、新潟市生まれの小説家(1955年没)。戦後、『堕落論』『白痴』で一躍時代の寵児となった。歴史を題材にした小説や評論も多い。 ↩︎
  12. 頼朝と『吾妻鏡』
    源頼朝は鎌倉幕府の初代将軍。『吾妻鏡』は鎌倉幕府の事績を記した歴史書で、家康はこれを愛読し、慶長10(1605)年には出版もさせている(伏見版)。家康は出版事業家でもあったといえる。 ↩︎
  13. 坂口安吾『家康』(青空文庫Kindle版p.22) ↩︎
  14. 『風姿花伝』
    室町時代の能役者・世阿弥が、父・観阿弥の教えをもとにまとめた能の理論書。15世紀初めに成立した。演技論にとどまらず、「秘すれば花なり」をはじめとする言葉で、人に感動を与えるための心得を説く。観世家の秘伝書として外部にはほぼ知られず、広く読まれるようになったのは明治42(1909)年に吉田東伍が刊行して以降である。 ↩︎
  15. 式楽
    公式の儀式や饗応の場で演じられる芸能のこと。江戸幕府は能を式楽と定め、将軍の代替わりや祝賀の際に演じさせた。諸大名もこれにならって能役者を抱えた。 ↩︎
  16. 簒奪(さんだつ)
    臣下が君主の地位を奪い取ること。 ↩︎
  17. 小牧・長久手の戦い
    天正12(1584)年、家康が織田信雄(信長の次男)と組んで秀吉と戦った合戦。長久手の局地戦では家康方が大勝した。しかし信雄が秀吉と単独で講和したため、家康は戦う大義名分を失った。 ↩︎
  18. 臣下の礼
    天正14(1586)年10月、家康は大坂城で秀吉に謁見し、臣従した。それまで上洛を渋っていた家康に対し、秀吉は妹の朝日姫を正室として嫁がせ、さらに母の大政所を人質同然に岡崎へ送っている。 ↩︎
  19. 旧武田領・沼田・北条
    天正10(1582)年の武田氏滅亡と本能寺の変のあと、家康は甲斐・信濃をめぐって北条氏と争い(天正壬午の乱)、和睦して同盟を結んだ。その条件として真田昌幸の上野国沼田を北条に譲ると約束したが、真田がこれを拒否。第一次上田合戦(1585年)へと発展した。家康は娘の督姫を北条氏直に嫁がせている。 ↩︎
  20. 秀長屋敷での逸話
    『徳川実紀』などの後世の編纂物に見える話で、同時代史料による裏付けは乏しいとされる。 ↩︎

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